アイスクリームはじめて物語~その“冷たい菓子”に日本中が驚いた明治からの歩み
老若男女すべてに愛されているデザートに「アイスクリーム」がある。その歴史をたどると海外から日本へとやって来た“冷たい菓子”その壮大な歩みに出会うことができる。
「アイスクリーム」の起源は古代ギリシア時代にさかのぼる。“疲れを癒す健康食品”としてシャーベットのようなものを食べていたと伝えられる。デザートとしての道が始まったのは16世紀。イタリアの大富豪メディチ家とフランス国王の婚礼晩餐をきっかけにヨーロッパに広まった。当時は冷凍庫(フリーザー)など存在しない。雪や氷を冬の間に貯蔵したり、場合によっては高い山に雪を取りに行ったり、“冷”の確保をしたそうだ。そして18世紀のアメリカ、余ったクリームを「もったいないから」と冷やして売ったら大人気で、これが今日の「アイスクリーム」につながった。
日本にはそのアメリカから伝わった。明治時代のことである。神奈川県の町田房蔵さんが、渡米していた知人からアイスクリームの作り方を学び、一緒に作り始めたことが日本でのアイスクリーム作りの始まり。1869年(明治2年)に横浜の馬車道通りで製造販売を始めたと「日本アイスクリーム産業の歴史」は記す。この頃は「あいすくりん」と呼ばれ、皿にのせてスプーンで食べるスタイル、牛乳、卵、砂糖を混ぜ合わせたシンプルなものだった。しかし、最初はまったく売れなかった。理由は「値段が高かった」から。一皿50銭、今でいう8000円もしたというから“高級デザート”だった。
明治時代の文明開化が進むと共に、「あいすくりん」はレストランや企業レベルで製造されるようになった。東京の麹町にあった洋菓子屋「開新堂」などが販売をスタートし、1902年(明治32年)には「資生堂」が、レストランとして初めて「アイスクリーム」をメニューに載せた。さらにソーダ水と組み合わせたアイスクリームソーダも登場し、「アイスクリーム」は庶民の暮らしに浸透していく。1920年(大正9年)には冨士食料品工業(現在は森永乳業グループ)が、アメリカから取り寄せた大型のフリーザーによって、本格的な生産を始めた。太平洋戦争で、酪農生産物はすべて軍に調達されて、製造はストップしたものの、終戦後は自転車に「アイスクリーム」を積んで売るアイスクリーム売りが登場し、その甘味は戦争で傷ついた人々の心を和ませた。
大きな転機は、1953年(昭和28年)カップアイスの登場だった。それまでは大きな容器に入ったものを取り分けて食べていたが、雪印乳業が1人分のカップに入った「アイスクリーム」を発売。木製のスプーンで食べる気楽なスタイルで、「アイスクリーム」は人気のデザートになった。カップの色は赤、黄、青の3色あったが、特に青色は「バニラブルー」と呼ばれて、長く愛されていく。1960年代に入ると、アイスバーにくじがついた「ホームランバー」も登場し、讀賣ジャイアンツの王貞治選手や長嶋茂雄選手らプロ野球スター選手の人気と共に、子どもたちが駄菓子屋で買うおやつのトップ商品にまで成長した。現在もコンビニエンスストアには、どれにしようか迷うほど沢山の「アイスクリーム」が訪れる人たちを待っている。
冷たく凍った菓子を日本人向けに開発し続けた多くの先人たちの歩み。その思いはアイスクリームをも溶かすほどの熱いものだった。「アイスクリームはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが刻まれている。
【東西南北論説風(290) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。
【参考】「日本アイスクリーム産業の歴史」(独立行政法人 農畜産業振興機構/月報砂糖類・でん粉情報 2019年7月号)