伊勢湾台風から59年~襲来する2018自然災害の中で祖父の日記が語ること
亡き祖父は毎日きちんと日記をつける人だった。
台風が次々と日本を襲った今年、実家で探し出して1959年(昭和34年)の祖父の日記帳を開いてみた。
「朝の内上がっていた雨が猛烈に降り出し仕事にならず、隣のポンプ施設を見て帰る。
15号台風が今迄にない大きな規模を持って接近しつつある状況でまたも水入りの心配が出た」(以下、日記は原文ママ)9月25日の日記である。
しかし次の日のページは空白だった。
翌日に「台風15号」すなわち伊勢湾台風が祖父たちの住む名古屋の町を襲ったのだ。
2018年は異常気象と災害の年として記憶されるだろう。
多くの犠牲者を出した7月の西日本豪雨は、台風ではなく梅雨前線が長く停滞した結果だった。
台風は気象庁のまとめによると6月から8月の今夏、発生した数は18個、1951年(昭和26年)に統計が始まって以来で1994年(平成6年)と並んで最多だった。
暑さも異常だった。
観測史上最高の41.1度を埼玉県熊谷市で記録したほか、多くの場所で軒並み40度を突破した。
そして9月に入っても、台風21号が列島を通過して関西地区を中心に大きな被害をもたらした。
さらに同じ週に今度は震度7の地震が北海道を襲った。
台風21号は当初、59年前の伊勢湾台風と似たコースを通るのではないかと言われていた。伊勢湾台風は、5000人を超える死者・行方不明者を出し戦後復興の道を歩む日本にとって大災害となった。
祖父の日記が再開されたのは10日後の10月6日夜だった。
「久しぶりに明るい電燈の下で書く」として、伊勢湾台風が来襲した9月26日のことをふり返って書いている。
「今から思えば確かに大きな油断があった。
まさか風速が四十米を越えた四十五・七米になろうとは、
今迄の経験から夢想もしなかった」
「午後七時半から風は愈々(いよいよ)勢力を増し、
ラジオは紀伊半島上陸を伝え、遂に台風は最悪のコース。
八時半には流石にこれは凄いと思ふ程の暴風雨、
物凄い音に見れば、東南の八畳間の壁は落ち雨戸が一枚とんで風の吹くまま。
とり敢えず境のカラカミを盾に畳を持ち上げ防御」
「十時、風は台風の通過と共にウソのようにおさまった。
玄関を見ると相当の浸水だ。一分間に八粍(ミリ)の割で増しているわけ。
これはえらい事になった、愈々(いよいよ)畳上げだ」
翌9月27日にはこんな一文があった。
「何とも惨状目をおおふばかり。どこから手をつけて良いか、
何をしたら良いか、暫くボウゼンと言うのがこの日一日の始末」
自然災害への防災はますます大きなテーマとなっている
明治生まれの祖父は太平洋戦争にも従軍し、数々の修羅場を経験していた。
その人にしても茫然自失という当時の姿が日記帳からあふれ出ている。
「想定外」「未だ経験のない」「50年に一度」
いろいろな言葉で表現される自然災害が続いている。
西日本豪雨ではあんなに長きにわたって雨が降り続くことに驚いたし、大雨特別警報が11府県にも出されたのは初めてだ。
7月末の台風12号は寒冷渦の影響で東側から三重県に上陸するという初めてのコースを通った。
9月はじめの台風21号では大都市の大阪で車が次々と吹き飛ばされ、タンカーが橋に激突し、関西空港が水没した。これも前代未聞のことだった。
祖父たちと共に伊勢湾台風を経験した母は、59年前に壁が吹き飛び浸水したその家に現在も暮らしている。
80歳代半ばになった今でも、台風がやって来る度に、伊勢湾台風を思い出すと話す。
風は怖いと言う。水は嫌いだと言う。
祖父も母も戦争を経験した世代であり、備えの大切さをたたき込まれていた。
そんな人たちですらかつての伊勢湾台風の前でなす術はなかった。
台風だけでなく地震など自然災害への防災はますます大きなテーマとなっている。
「先人の知恵」「防災知識」そして行政の対応含めた「防災対策」、それがあってもなお自然の猛威は私たちの前に立ちはだかる。
関東大震災から始まり東海豪雨そして伊勢湾台風など「あれから何年」という言葉で自然災害が語られることが多い9月、もう一度、身の周りの備えについて考える機会にしたい。