ドラゴンズ思い出の助っ人・マーチン選手とデービス選手(07)
「マーチンが来ているよ!サインもらってきてよ!」
名古屋市中区のピザ店「シェーキーズ」に遅れて到着した私に、すでに席についていた友人が興奮して話しかけてくる。高校2年、学年末の春休みが近づく土曜日の午後。
名古屋の繁華街にあるこのピザ店では、ランチタイムに500円でピザ食べ放題サービスをやっていた。食べ盛りの高校生にとっては、貴重な“昼食天国”であり、クラブ活動が休みの土曜日などは、午前中の授業を終えてグループで押しかけていた。
しかし、当時の私はピザがあまり好きではなく、一人でチェーン店「寿がきや」でラーメンを食べてから友人と話をする目的のためだけに「シューキーズ」に合流したのだった。
気さくなマーチン選手との会話
友人の言葉通り、店の奥のテーブルには、中日ドラゴンズの4番打者トーマス・マーチン選手が、美しい夫人と共に座ってピザを食べている。友人以上に興奮した私は、何の躊躇もなくノートを手にマーチン選手の席へ向かう。
なぜ友人が私に対してサインを頼んだかと言うと、ドラゴンズファンであることはもちろんなのだが、当時、友人の間で私は「英語が得意」と見られていたのだろう。
英語の成績はまずまず良かったものの決してトップクラスではなかった。要するに英語で外国人に話しかける度胸があったということだ。この時も、とにかく頭の中に浮かぶ英単語を、夢中で並べたてた。
「きょうはホークス(南海)と試合(オープン戦)なのではないですか?」
「去年あなたの家でサインをもらいに行ったのは僕の高校の友人です」
「僕はナゴヤ球場の近くに住んでいます」
そして、
「去年も中日球場へ10回応援に行きました。今年も行きます!」
すると、マーチン選手が
「マイチニネ(毎日ね)」
と日本語で答えてニッコリ微笑んでくれた。
嬉しかった。『燃えよドラゴンズ!』に「4番マーチン、ホームラン」と歌われている竜の4番バッターが自分と気さくに話をしてくれている。本当に性格のいい愛すべき助っ人だった。友人の分含めてバインダーノートのページにサインしてもらい、
「ホームラン王を期待しています!」
と、いかにも日本語を英語に直しやすいシンプルな励ましの言葉と共に握手して、興奮の出会いを締めくくった。大きな手のひらだった。
現役大リーガーが名古屋へ上陸
そんなマーチン選手だったが、1977年(昭和52年)、来日4年目のシーズンに入ると調子を落としてしまう。その理由とも言われたのが、もうひとりドラゴンズに新たにやって来た、バリバリの大リーガー助っ人、ウィリー・デービス選手だった。
1936年(昭和11年)のバッキー・ハリス選手やドラゴンズの記念すべき球団創設1勝目をあげたハーバード・ノース投手、こうした選手以来、もちろんマーチン選手を含めて、過去にドラゴンズに加わった外国人選手の中では、実績は文句なし。
しかし、そのキャラクターも強烈で、ユニークな言動など数々のエピソードが残っている。一方で、実力はすごかった。開幕戦は4月2日。中日の相手は巨人であり、王選手の満塁ホームランなどによって5対3で敗れた。開幕戦の敗戦にもかかわらず、私の日記の文章は興奮している。
「驚いたのはデービス。ものすごい。第1打席は強いレフトライナー、第2打席は文句なしのヒット。第3打席はポテンヒットを2塁打にした後、タッチアップでホームイン。『ウォー!』と吼えながら、ホームへすごいスライディング。恐ろしい選手だ。オープン戦と大違いだ」
風か魔かデービス
そして忘れもしない1977年5月14日土曜日、宿敵読売ジャイアンツをナゴヤ球場に迎えてのナイターだった。
ドラゴンズ1点リードで迎えた7回裏、二死満塁でバッターボックスには2番センターのデービス選手。マウンドには後にジャイアンツのエースとなり、さらにドラゴンズの一員にもなった若き西本聖投手。2ストライクかノーボールから放った打球はライナーでライトフェンスを直撃。テレビカメラは二宮右翼手がボールを取ろうとして転んでいるシーンを映し、再び画面がダイアモンドに切り替わった瞬間・・・目を疑った。
すでにデービス選手は3塁ベースを廻って、本塁ベースに向かっている。その歩幅のすごいことすごいこと。記録VTRから歩数を計測してみると三塁からホームベースまでの塁間27.4メートルをわずか12歩で走ったのだった。
ホームに駆け込んだデービスは、迎えた選手に思いっきりハイタッチ、そして帰ったベンチ前で、マウンドの西本投手に対して拳を突きつけて咆哮したのだった。その興奮の中、テレビの前の私は、実は満塁だったことにあらためて気づいた。そう、ランニング本塁打でも珍しいのに、これはランニング満塁本塁打だったのである。
翌日の中日スポーツの大見出し、それは今なお忘れもしないフレーズ「風か魔かデービス」だった。
さらばデービス選手
そんなデービス選手だったが、8月に守備の際にフェンスにぶつかり左手首を骨折。
結局、このシーズンだけで退団してしまった。
実はそれまで、大リーガー・デービス選手の“毒気にあてられ”続けていたのか、不調だったマーチン選手が、再び調子を取り戻し8月から打ち始めたのは、何とも皮肉な現象だった。
わずか1年だったが、デービス選手の成績は、72試合、打率3割6厘、25本塁打、63打点。すばらしい成績だった。
故郷に帰ったマーチンは今
放送局での仕事に就いた後、1984年(昭和59年)10月、夕方のニュース番組『CBCニュースワイド』10周年記念特集で「ドラゴンズ選手は今」という特集を担当した。その際、ドラゴンズ球団から連絡先を聞いて、アイダホ州で農場を営むマーチン選手に電話インタビューする機会を得た。
突然の電話にもかかわらず、マーチン選手は快く取材に応じてくれて、メキシコで1年野球をやったが今は穀物を売っていること、そして山内一弘監督の下でドラゴンズが首位を走っていると聞いたこと、そんな話をしてくれた。
実は現在ドラゴンズは首位ではなく、広島カープが優勝しそうだと告げると、いきなり日本語で「・・・ホントデスカ?」。
そして、再び英語で、「ドラゴンズに伝えてよ、いつでも“助っ人”に駆けつけるよ」と話してくれた。変わらないその人柄に、私は高校時代のピザ店での“最初のインタビュー”をなつかしく思い出していた。
トーマス・マーチンとウィリー・デービス。私にとって、ドラゴンズ史上で忘れられない2人の外国人選手である。(1976~1977年)