嗚呼!12年ぶりの最下位~パリの空の下からドラゴンズを思う(10)

嗚呼!12年ぶりの最下位~パリの空の下からドラゴンズを思う(10)

その夏、大学3年生だった私はパリにいた。
愛知県立大学外国語学部でフランス語を専攻していた私は、在学中に一度は本場の空気に触れたいと思っていた。それが実現したのが、親友3人と共にリュックを背に出かけたヨーロッパ40日間の旅であった。1980年(昭和55年)の夏だった。

ドラゴンズ低迷中の旅立ち

私にとって大きな問題は、ドラゴンズの情報が基本的に40日間入らない恐れがあることだった。高校2年の時は、修学旅行そして卓球部の合宿と、それぞれ3泊4日だったが、ドラゴンズ中継を聴くために携帯トランジスタラジオを買った。
しかし、このヨーロッパの旅で、ラジオ中継は諦めざるをえない。衛星放送もない。日本の新聞衛星版もない。インターネットもない。生まれてから最も長くドラゴンズと“離れる”日々となった。
そんな大学生ファンの熱い思いとは裏腹に、当のドラゴンズはその年、日本を離れても後ろ髪など引かれないほどの低迷したシーズンを送っていた。3年目を迎えた中利夫監督だが、開幕から6連敗。そのままチームは浮上できなかった。
2ケタ投手は一人も出ず、サブマリン三沢淳投手の8勝が最高で、エース星野仙一投手は6勝に留まった。前の年に新人王だったパームボールの藤沢公也投手にいたっては開幕9連敗と、いわゆる“2年目のジンクス”に押し流された。主軸の宇野勝選手や大島康徳選手もケガなどでシーズン通しての活躍はできず、これでは勝てるはずがない。

パリからのドラゴンズ電話

最下位とは言え、ドラゴンズの成績を気にしながら旅立ったヨーロッパ。
我々4人は一緒に動く時もあれば、それぞれ別々に動く時もあった。ユーレイルパスという鉄道乗り放題パスを使い、イギリスから始まり、スイス、イタリア、オーストリアなどを旅したが、その中心はフランスだった。
私はパリをゆっくり味わいたかったので、8月7日、ひと足早めにひとりでパリ入りした。リヨンからの列車がオーステルリッツ駅に着いて、真っ先に行きたい場所が2つあった。
ひとつは昼食のための「大阪屋らーめん亭」。とにかく日本食、ラーメンが食べたくて仕方なかった。当時パリにもまだまだ日本食レストランは決して多いとは言えなかった中、ルーブル美術館近くのこの店は有名だった。
そして真っ先に行きたい場所のもうひとつ。それはPTT(郵便局)だった。
この時点で長い旅も4分の3ほど終わっていた。日本へ電話して・・・ドラゴンズの成績が知りたい。せめて最下位から5位に上がってくれただろうか。郵便局からは、国際電話ができ、それもオペレーターに申し込むと、「PCV」と呼ばれるコレクトコール(料金着払い電話)ができる。大学生の貧乏旅行に国際電話をする金銭的余裕はなく、実家に甘えさせてもらうことにした。
「ドラゴンズはどうなった?」
「最下位」
母の声は無常に響く。なんと、7月後半のオールスターゲーム後、まだ1勝しかあげていないという。その受話器を奪ったのが祖父だった。
「そんなこと気にせずに、あり金全部使って来い!」
何とも豪快な笑い声だったが、ドラゴンズファンとしては笑える心境ではなかった。
8月19日に帰国。日本への機内で読んだ8月18日付けの新聞は、やはりドラゴンズの最下位独走を告げていた。

12年ぶりの最下位で監督交代

結果的に1980年のドラゴンズは45勝76敗9分、勝率は球団史上最低の3割3分2厘で12年ぶりの最下位だった。中監督は3期で退任、そして、ドラゴンズを引っ張ってきた高木守道選手もシーズン限りでユニホームを脱いだ。竜にとってはそんな淋しいシーズンだった。
たったひとつだけ嬉しいニュースは、谷沢健一選手が2度目の首位打者を取ったことだろう。アキレス腱の痛みを独特の日本酒マッサージ療法で克服した谷沢選手は、これも独特の足の負担を軽減する特注スパイクをはいて復活。3割6分9厘の堂々たる成績で、ヤクルト若松勉選手との争いを制してタイトルを獲得した。

ジャイアンツでもONが別れ

今ふり返ってもこの1980年は、日本の歴史にとっても実に多くのニュースがあったと思う。プロ野球界では、ドラゴンズだけでなく読売ジャイアンツも大きく揺れた。
1975年(昭和50年)から6シーズン指揮を取ってきた長嶋茂雄監督が3位というAクラスにもかかわらず辞任。そして世界のホームラン王である王貞治選手も22年間の現役に別れを告げた。生涯ホームランは868本だった。
中日と巨人、それぞれ背番号「1」がユニホームを脱いだ年となった。

W選挙・首相急死・たのきんフィーバー

政治では、初めての衆参同日選挙が行われたのもこの年だ。権力抗争の中、自民党は分裂し、5月には大平内閣の不信任案が自民党反主流派欠席の状態で可決され、6月に総選挙が行われた。ところが、その選挙戦の最中に大平正芳総理大臣が急死したのだ。
結果「弔い合戦」の旗を掲げた自民党は、衆参どちらでも圧勝。鈴木善幸内閣が誕生する。
国際政治では、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカが、夏のモスクワオリンピックをボイコット。日本も追随して不参加を表明した。特に金メダルが確実視されていた柔道の山下泰裕選手の悔し涙は忘れられない。
旅の最中にイタリアではボローニャ中央駅でテロによる爆発で日本の大学生1人を含む85人が死亡したが、日本国内でも新宿駅西口でバスが放火され6人が死亡する惨事が起きた。この8月19日は、ちょうど40日間の旅を終え、帰国した当日のことだった。凶事と言えば、ビートルズのジョン・レノンがニューヨークで凶弾に倒れたのも、この年の12月だった。
そして、芸能界では、松田聖子と田原俊彦がデビュー。新たなアイドル達が続々と登場した年でもあった。特に田原俊彦は、テレビドラマ『3年B組金八先生』の生徒役でデビュー、「たのきんトリオ」のひとりとして人気急上昇中だった。
ヨーロッパへ出発する前日の7月10日木曜日、人気歌番組『ザ・ベストテン』の第10位にはデビュー曲『哀愁でいと』が初めてランクイン。踊りのキレはあるものの歌は決して上手いと言えず、旅行中にランク外かと思いきや、40日の旅を終えた2日後の木曜日、『ザ・ベストテン』の1位はなんと『哀愁でいと』だった。

そして最下位から出直すドラゴンズ。その指揮をまかされたのは、1974年(昭和49年)20年ぶりのリーグ優勝で、ヘッド兼投手コーチとして与那嶺要監督を支えた近藤貞雄さんだった。(1980年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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