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江川卓投手「空白の一日」波乱のドラフト会議を大学卒論ネタに!(09)

江川卓投手「空白の一日」波乱のドラフト会議を大学卒論ネタに!(09)

1977年(昭和52年)のドラフト会議でクラウンライターライオンズに1位指名されながらも入団を拒否した江川卓投手が法政大学を卒業した翌1978年春。
私は高校を卒業して、大学生になった。江川投手が通っていた法政大学など東京六大学の規模とは比べものにならない小さなキャンパスの大学である愛知県立大学、その外国語学部でフランス語を専攻した。当時は全国の国公立大学の中でも狭さは3番目という大学だった。

中監督ドラフト会議で起きた衝撃

その年、中日ドラゴンズには、高木守道選手との1・2番コンビで知られた名外野手・中利夫さんが10年ぶりの生え抜き新監督に就任して、新しい体制がスタートした。
そんな春・・・江川投手は、母校である作新学院の職員という身分で、アメリカへ野球留学した。社会人になると2年間はプロ入りができないため、すぐ次の秋に、入団を切望していた読売ジャイアンツのドラフト指名を受けるための“緊急避難”措置だった。
江川投手は、前年に続いてその秋のドラフト会議でも主役となったが、それは「空白の一日」というキーワードと共に「江川事件」として語り継がれるドラフト会議となった。
そして、大学生になったドラゴンズファンの私にも、後に別の意味で色濃く関わってくる騒動となった。

「空白の一日」に大揺れ

江川投手を指名したクラウンライターは業績不振などから、球団を手放す決断をしてこの年の10月12日、ライオンズは西武グループに身売りされた。その後で黄金時代を築く西武ライオンズの誕生である。
ドラフト会議2日前の11月20日に西武ライオンズは、交渉権を持つ江川投手と入団交渉をしたが、江川投手側は拒否。この日をもって、ライオンズの交渉権は消滅した。
そしてその翌日、世にいう「空白の一日」が訪れた。読売ジャイアンツが江川投手と入団契約を結んだのである。
そもそもこの一日は、前年の交渉権を持つ球団が指名選手との距離が遠くてもギリギリまで交渉できるようにとの、言わば便宜上の配慮として設けられていたものなのだが、読売はそれを「自由な一日」と解釈したのだった。これについて、セ・リーグ会長がこの契約は認められないとの見解を示すと、翌日のドラフト会議をボイコットするという強硬手段に出たのであった。
22日のドラフト会議は読売を除く11球団で行われ、江川投手を4球団が指名し、抽選の結果、阪神タイガースが指名権を獲得・・・という流れは、周知の事実である。
結果、江川投手はタイガース入団を拒否し、ジャイアンツはプロ野球からの脱退を匂わせた。それを納めるために金子鋭コミッショナーは、「江川投手がいったん阪神に入団した上で巨人へトレード」との“強い要望”という収集案を提案して、阪神・江川投手と巨人・小林繁投手のトレードへと進んでいった。
さすがに“球界の盟主”と呼ばれるだけに、読売ジャイアンツのやることは違う・・・と大学生の私は呆れていた。それは怒りを通り越してのことである。
わが日記には「これで巨人からファンは離れるはず」と妙に冷静な感想を書いている。

ドラゴンズは高橋三千丈投手を指名

その年のドラゴンズはドラフト1位で明治大学の高橋三千丈投手を指名した。
さらに嬉しいことに、前年のドラフト1位で入団を保留してきた藤沢公也投手が入団を決意。ドラゴンズにはそのオフ、“ドラフト1位”選手が2人も入団することになった。江川騒動もさることながら、ドラゴンズファンとしてはその喜びの方が大きかった。

江川投手に起きたハプニング

複数年にわたるドタバタ劇からプロ野球選手の道に進んだ江川投手の“いばらの道”は続く。入団2年目の1980年(昭和55年)は、16勝の最多勝と最多奪三振と好成績だったが、沢村賞を逃す。当時の沢村賞はプロ野球担当記者による投票だった。
そして翌1981年は20勝6敗での最多勝をはじめ最多奪三振、最優秀防御率、最高勝率、最多完封と投手5冠を獲得し、シーズンMVPにも選ばれたのだが、沢村賞には同僚の西本聖投手が投票で選出された。西本投手の成績は18勝12敗だった。担当記者たちが江川投手を“敬遠”したことは一目瞭然だった。
しかし、この沢村賞の連続落選が、思いもかけない展開を見せる。そして、これが私の大学卒業論文のテーマになっていくのだから、これも思いもかけない展開かもしれない。

卒論に綴った「江川騒動」

『ドレフュス事件とジャーナリズム』・・・これが私の卒業論文のタイトルである。
19世紀フランスで起きた事件で、ユダヤ人だったドレフュス大尉がスパイ容疑で逮捕される。そのきっかけは、反ユダヤ系の新聞が容疑を報じたためで、ドレフュス大尉は無実を訴えながらも、官位を剥奪された上で獄舎につながれる。そのドレフュス大尉の救済に乗り出したのが作家エミール・ゾラたちで、こちらも新聞を使って、無罪キャンペーンを張る。結果ドレフュス大尉は冤罪を晴らし無罪となるのだが、マスコミが幕をあけマスコミが幕を下ろしたこの事件を軸に、ジャーナリズムを考えようというのがテーマだった。
私が一番言いたかったことは、マスコミが世論をある方向に持っていこうとしても、現実はそのマスコミが思った方向に進まないことが多々あるということ。すなわち、「マスコミと世論」を考えた場合、マスコミの力には限界というものが存在し、それをマスコミの世界で生きる人間は謙虚に受け止めるべきだというのが当時大学生の私の主張だった。
この卒業論文の中で、私はかつての総理大臣・田中角栄氏を取り上げた。田中角栄元首相は当初、中学卒の学歴から宰相になったこともあり、「日本列島改造論」と共に、「今太閤」「コンピューター付きのブルドーザー」などとマスコミにもてはやされた。しかし、ロッキード事件が明るみに出る頃、これもマスコミによる報道によって疑惑が明らかになり、失墜した。マスコミが盛り上げ、マスコミが彼を舞台から引き下ろしたのだった。

江川投手に圧倒的な同情の声

そして、「江川騒動」である。私が注目したのは、江川投手が20勝の最多勝をはじめ投手5冠を獲得しながらも「沢村賞」に選出されなかったことにより、世論が思いもかけない方向へ動いたことだ。
「江川がかわいそうだ」と世論は動いた。巨人が日本一になった日本シリーズのマウンドに立っていた江川投手に、万雷の拍手が送られたのが、その象徴だった。江川投手を敬遠した当時のスポーツマスコミだったが、沢村賞回避という結果に、世論は逆に、江川に肩入れすることとなったのだった。

~卒論『ドレフュス事件とジャーナリズム』より抜粋~
ニュースは、社会的に大きな貢献をするのだが、その結果から見れば、ジャーナリズムが意図した効果と逆になっている場合も多々ある。このことをしっかりと把握しなければなるまい。
1981年、プロ野球界でも皮肉な現象が起きている、3年前の1978年、“空白の一日”という野球協約の盲点をついての巨人入団以来、ずっと“ダーティ”という
イメージで見られてきた江川卓投手と、江川の陰に隠れながらもがんばってきた“努力の人”同じ巨人の西本聖投手が、その“皮肉な現象”の主役だった。
10月、シーズンを通して活躍した本格派投手に与えられる最高栄誉『沢村賞』が、
大方の予想をくつがえして、西本に決定した。どんな江川嫌いの人間でも「沢村賞は江川」と信じていただけ意外であった。この賞は、新聞・放送などの報道機関の運動部長の投票によるもので、言うなれば、3年間の憎しみを捨てていないジャーナリズムが、江川を敬遠し、一生懸命努力してきた西本を引き立てた、というわけだ。
ところが、これによって、世論は思わぬ方向に動いた。「いくらなんでも江川がかわいそうだ」と次々に同情が江川に集まっていった。「忘れやすい」という世論の性質の上に、日本人特有の“判官びいき”である。日本シリーズなどでの、江川に対する絶大な拍手は記憶に新しい。入団以来、世論からも、そしてチ―ムメートからも白い目で見られていた江川は、一躍、人気者となってしまった。ジャーナリズムによる
江川糾弾が、まったく逆に作用し、江川を救ってしまったのである。

この卒業論文は、ページにして105ページ。提出の基準は30ページだったから、とにかく書きまくった。卒業後の私は、夢がかなってマスコミの世界に進むことになる。母校にもフランス学科の指導教授にも申し訳ないが、学術論文というよりは、ジャーナリズムの世界に入る自分自身の決意表明みたいな文章だった。

落合選手と巨人の縁は結ばれず

江川投手をめぐる“空白の一日”で揺れた1978年(昭和53年)ドラフトだったが、複数の証言によると、巨人は東芝府中のスラッガー・落合博満選手の指名を予定していたようだ。
しかしドラフト会議をボイコットしたため、落合選手を指名することはできず、ロッテ・オリオンズが3位で指名。その後の落合選手は三冠王を3度も取るという偉業を達成するのだが、人の運命と言うのは本当に紙一重だと思う。

新婚旅行先でもドラゴンズ

ドラフト会議について書き綴ってきたが、締めくくりは何歳になっても、そしてどんなシチュエーションでも変わらない、私のドラフト会議好きのエピソードである。
1987年(昭和62年)11月18日、3日前に名古屋で結婚式を挙げた私は、新婚旅行でイタリアのローマにいた。サンピエトロ寺院を始め、古都ローマを楽しんだ後、ホテルの部屋に戻って私がまずやったことは、名古屋の実家に連絡して、その日行われたドラフト会議の結果を聞くことだった。
「ドラゴンズの1位はPL学園の立浪(和義)。南海ホークスとの抽選で勝った」と母。
「長嶋一茂は巨人ではなくヤクルト」とも教えられた。

この日のローマの空はドラゴンズブルー、まさにドラゴンズ新時代の幕開けを祝福しているようだった。横にいた新婚の妻があきれ返っていたことは言うまでもない。(1978年)

【CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
※ドラゴンズファンの立場で半世紀の球団史を書いた本『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』(ゆいぽおと刊・2016年)を加筆修正して掲載いたします。

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