「高木イズムの継承」 阿部、京田の心に宿ったミスタードラゴンズの遺志
「【ドラゴンズライター竹内茂喜の『野球のドテ煮』】
CBCテレビ「サンデードラゴンズ」(毎週日曜日午後12時54分から東海エリアで生放送)を見たコラム」
不世出の二塁手
まさに突然であり信じられない訃報だった。
現役時代「ミスタードラゴンズ」と称され、二度ドラゴンズを指揮した高木守道さんが17日、急性心不全のため亡くなった。享年78歳。1月12日、CBCラジオの番組で元気な声を聴いていただけに、なんとも受け入れ難い報せであった。
1960年(昭和35)年、県立岐阜商高からドラゴンズに入団。プロ初出場は代走で起用され、即初盗塁を記録、さらに初打席で初本塁打を放つという華々しいデビューを飾った。入団4年目から5年連続ベストナインに選出されるなど順調満帆なプロ野球人生を過ごしていた。しかし好事魔多し。プロ9年目の1968(昭和43)年にジャイアンツのルーキー堀内恒夫から受けた死球がもとで、一時深刻な打撃不振に陥ったが、不屈の精神で見事復調。1974(昭和49)年には20年ぶりとなるリーグ優勝には走攻守で大チームを牽引。1978(昭和53)年4月5日の広島戦(広島)には、球団初の2000安打を達成。生涯成績は2274安打、236本塁打、369盗塁を記録。三度の盗塁王に輝き、ベストナイン7度、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)3度受賞。オールスターゲームには4度出場した不世出の名二塁手であり、まさに攻守走すべてが超一流の選手であった。
**二塁にまつわる記録(二塁での試合数…2179、守備機会…11477、刺殺数…5326、捕殺数…5867)は今でも軒並み歴代一位をキープ。
1980(昭和55)年の引退後は、二軍監督、一軍守備コーチを歴任。CBC解説者並びに野球評論家を経て、1991(平成3)年オフ、監督に就任。1994(平成6)年にはジャイアンツと同率首位で並び、シーズン130試合目の最終戦を本拠地ナゴヤ球場で迎えた「10.8決戦」を指揮。当時その一戦は「国民的行事」として注目された。ナゴヤドームに戦いの舞台を移し、2012年から再び指揮を執ったものの悲願の優勝には一歩届かず、ユニホームを脱いだ。
思い出の高木チェック
高木さんといえばバックトス。今シーズンから一軍守備コーチに就任する荒木コーチはその芸当を述懐する。
“(バックトスは)芸術的ですよね。同じようなことをやろうと思って練習しましたができませんでした。どれだけの苦労をして練習されたのかを感じますね。”
壁にボールを投げ、捕り、二塁ベースを想定した位置にネットを置き、バックトスで投げる。その繰り返し。黙々と続けた反復練習。高木さんは自他ともに認める努力の人だった。しかしその努力は職業野球、プロである以上、上手くなるためには当たり前のことと日々鍛錬を重ねていった。
まさに職人。そのプライドはサンドラ内の名物コーナーで光り輝いていた。高木チェック-選手の好守を高木さん自身がジャッジ。ファインプレーに見える守りにも容赦なく「普通」の札を上げる姿が好評だった。
“イージー!イージー!”“どこがファインプレー?”“うーん、これは…やっぱり「普通」だな”
どうすればファインプレーがもらえるのか、そんな声に高木さんはいつも毅然とした態度で返答した。
“そう簡単に「ファインプレーを出したらね、高木チェックの権威が落ちる”
高木チェックでファインプレーのジャッジをもらい、高木チェックグランプリを受賞した実績を持つ荒木コーチ。
“これは一番格式の高い賞ですから”
守りのベストナインであるゴールデングラブ賞より価値の高さを認め、高木さんへの想いを続けた。
“やっぱり高木さんにほめられるのは野球をやってきた中でそうそうないことでしたから。うれしかったですね”
プロの「粋な姿」
プロがプロとして認める。決して容易いことではない。だからこそ認められた時のうれしさはこの上ないものとなる。まさに職人の親方と弟子との関係。めったにほめないが、ふと発した一言が明日の糧となり力となる。司会の若狭アナが本番で発した言葉、がまさに言い得ていた。
“高木さんは野球に限らずプロと認めるレベルがものすごく高い人。だからプロの仕事をした時に限ってクールにしておくべきだというプロの「粋な姿」を教えてもらった気がします”
高木さんから「プロの教え」を感じ取った選手は幸せ者だ。その代表格の一人でもあるのがミスタードラゴンズの後継者である立浪和義さん。生前の高木さんの思い出をこう語った。
“職人ですね、高木守道さんといえば。二塁手としても素晴らしい功績を残している方ですから。「オレは現役時代にサードから投げた悪送球をいつかダイレクトで捕ってやろうと、それぐらいのつもりでカバーに走っていた」と言われたのが今でも印象に残っています”
その話を聞き、頭に浮かんだのは一塁タイロン・ウッズが守っていた時の二塁荒木コーチのバックアップ。捕れない球はすべて捕ってやるという荒木コーチの高木イズムが伝承された証といえよう。
高木イズムの継承、いでよミスタードラゴンズ
この日スタジオには阿部寿樹二塁手、京田陽太遊撃手がゲストとして番組に出演、高木さんの功績をじっと見つめていた。偶然にも二塁を守り、背番号1を背負う両者。高木さんをどう思い、感じたことだろうか。
初の開幕スタメンを勝ち取り、セカンドのレギュラーに定着。今年は4番を期待される阿部。開幕スタメンを外されたことに一念発起。シーズンを終われば139試合に出場。他チームのショートと比較してもすべての項目で一番の守備力を誇った京田。偉大なるレジェンドの実績を二人にはまぶしく感じたようだ。互いに誓ったのは高い向上心を持って開幕を迎えること。まさに練習あるのみ。高木さんがたゆまぬ努力でつかみ取った技と自信はまさに黙々とこなした練習の積み重ね。時代を超え、令和の世で今、継承されようとしている高木イズム。
立浪和義氏が引退してから空席が続くミスタードラゴンズの座。高木さんがこの世を去り、あらためてその名跡は重く感じる。ただそのプレッシャーに負けることなく阿部、京田、そして他の選手たちも我こそはと名乗り出て欲しい。二年目の根尾昂内野手、ルーキー石川昂弥内野手も候補者のひとりだ。ドラゴンズを強くするためにはミスタードラゴンズの存在が不可欠、いなくては始まらない。四代目の誕生を一日千秋の思いで待ちたいと思う。
そして最後に高木守道さん、今まで多くの感動をありがとうございました。いつも貴方のプレーに勇気を頂きました。ミスタードラゴンズ、背番号1よ、永遠に。
(ドラゴンズライター 竹内茂喜)