「そだねー」から考える「レジェンド」の道
北辻利寿
平昌五輪が幕を閉じ、次は平昌パラリンピックの開幕である。
先に開催された五輪は過去最多のメダル数13個(金4・銀5・銅4)を獲得し、日本中を連日大いに沸かせた。同時に思いもよらぬ副産物も残した。カーリング女子チームの試合から生まれた「そだねー」そして「もぐもぐタイム」という、今年の「流行語大賞」候補の言葉である。
氷の上で真剣に戦う彼女たちがそもそも「流行語」を意識したわけはなく、さりげなく普通に使った言葉、そして日常通りの行動、これが一躍注目を集めたのだから、世の中は何が起きるか本当に面白い。
ウケを狙ってうまくいくこともあるが、自然発生的だからこそより多くの支持を集めたのだろう。この1か月、学校や職場など自分の周囲で「そだねー」という言葉を耳にする人も多いのではないだろうか。
五輪から生まれた流行語としては、最近では4年前ソチ五輪の際の「レジェンド」がある。当時41歳のスキージャンプ代表・葛西紀明選手が、個人ラージヒルで銀メダル、団体ラージヒルで銅メダルを取ったことから、その年の「2014ユーキャン新語・流行語大賞」(現代用語の基礎知識選)のトップテンに選ばれた。
その「レジェンド」葛西選手にとって今回の平昌五輪は実に8度目のオリンピック出場だった。多くのアスリートたちが頂点として目指す大会に8回も出場するということは、大変なことである。葛西選手は45歳。「レジェンド」と呼ばれ、たゆまぬ努力と衰えぬ闘志は、欧米の選手からもリスペクト(尊敬)される存在である。
しかし、この五輪は不調だった。個人ノーマルヒルは21位、個人ラージヒルは33位とまったくふるわず、それでも出場した団体競技も2回のジャンプ共にK点に及ばず、日本は6位に終わった。
「僕の力は半分しか出していない」すべての競技を終えた直後の葛西選手の言葉である。そして4年後の北京五輪について「目指すというか、絶対に出ます」とした。その意気込みは良しとしても、オリンピックの舞台で「半分しか力を出せなかった」ことを葛西選手本人はどう総括しているのだろうか。その分析を待たずしての"4年後の出場宣言"は、やや時期尚早な印象を否めない。
日本ジャンプ陣の喫緊の課題は「世代交代」と言われる。49歳の葛西選手が北京の空の下、ジャンプ台に立つことができるかどうか見守りたい。
4年前の「2014ユーキャン新語・流行語大賞」表彰式に、この葛西選手と並んで出席したのが、当時プロ野球の中日ドラゴンズ投手だった山本昌さん(本名:山本昌広)である。
この時の山本さんは49歳でプロ野球最年長登板や最年長勝利の記録を更新中だった。やはり「レジェンド」と呼ばれていた。その山本昌さんは3年前に50歳で引退した。
1983年(昭和58年)ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団した山本昌投手は、ドジャース留学から戻った1988年(昭和63年)シーズン途中からいきなり5勝をあげてリーグ優勝に貢献、頭角を現す。2度の最多勝、最優秀防御率、沢村賞などの投手タイトルを次々と獲得、2015年の引退までに219勝165敗5セーブの成績を残した。
この実績以上に、山本投手の名を知らしめたのは勤続年数である。
2006年(平成18年)9月、プロ野球最年長でノーヒットノーランを達成したことを始め、50歳でマウンドに立つなど、「レジェンド」という言葉が「長く活躍するアスリート」を同時に表現するならば、まさにその称号にふさわしい野球人生だった。
ドラゴンズの監督をつとめた落合博満さんが常々言っていた言葉がある。
「この世界(プロ野球)はユニホームを脱ごうと思って脱げる選手と脱がされる選手がいる。自分の意志でユニホームを脱げる選手になれ」
山本昌投手は自分で引退を決めたが、その時の言葉はこうであった。
「若返りを進めるドラゴンズを見て、自分が残ったら駄目だと感じて引退を決めた」
現在、同じドラゴンズには山本昌投手に続き、最近「レジェンド」と呼ばれ始めた岩瀬仁紀投手がいる。昨シーズンにプロ野球記録の950試合登板を達成し、次に注目される記録は前人未到の1000試合登板である。
今季の岩瀬投手はそれをめざして歩み続けるだろうが、常に引き際と背中合わせの立場に置かれていることも事実である。それが「レジェンド」の宿命であろう。
「レジェンド」と呼ばれるアスリート本人の夢そして見守るファンの夢、それらはとても素晴らしい。しかし同時に、その夢を達成する道は、常に世代交代と同時平行で走る道でもある。
「そだねー」が早くも強烈な印象を残している「流行語大賞」戦線だが、去年の大賞は「インスタ映え」そして「忖度」だった。スポーツの世界は言うまでもなく、舞台に立つ瞬間での実力優先。「レジェンド」と呼ばれる選手への遠慮や気遣いがあっては、むしろそれは本人に対して失礼であろう。
そこに周囲の「忖度」が入りこまず、皆が「そだねー」と納得して応援できる舞台であることを願ってやまない。
【東西南北論説風(35) by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
星野仙一さんが沖縄とドラゴンズに残した「夢」
北辻利寿
中日ドラゴンズの春季1軍キャンプ地である沖縄県北谷町、役場3階の町長室に「夢」と書かれた色紙が額に入れて飾られている。
今年1月に急逝したドラゴンズの元投手であり元監督の故・星野仙一さんが生前に北谷町に贈ったものだ。
ドラゴンズが北谷町をキャンプ地に選んだのは1996年(平成8年)、あれから23回目のキャンプとなった。
同じ沖縄の石川球場などで行っていたキャンプを北谷町に変更したのは、当時2度目の監督に就任したばかりの星野さんだった。
北谷町の人たちにとって星野さんへの思いは格別なもので、今年のキャンプ中は北谷球場入口近くには「星野仙一監督北谷メモリアルブース」が設けられた。北谷町と生前の星野監督の関係を記録した写真パネル24枚が飾られ、キャンプ地を訪れる人たちが次々と足を運んでいた。
野国昌春町長は星野監督の思い出について語る・・・。
ドラゴンズの監督を辞めた後、阪神タイガースの監督を経て、星野さんは東北楽天イーグルスの監督に就任した。北谷球場でドラゴンズとのオープン戦が開催された時、相手側3塁側ベンチにいる星野さんに挨拶に行ったら、「町長、ドラゴンズのことをしっかり頼むよ!」と激励されたそうだ。
敵将になってもドラゴンズへの愛を語る、その温かい魅力が忘れられないと、野国町長は懐かしそうに遠くを見つめた。「闘志と優しさの両方を持った人だった」と・・・。
北谷球場近くには今年のキャンプに合わせて、常設の投球練習場が新たにお目見えした。
ドラゴンズタウンとしての熱を地元の少年野球の子供たちにも、との願いをこめて町が予算をかけて新設したブルペンである。ドラゴンズ投手陣も連日気持ちよさそうに投げ込みを行なった。
星野さんが北谷町に撒いた"キャンプ地"としての種は、大きく育って花を咲かせ続けている。
星野さんがドラゴンズに残した足跡は"キャンプ地"だけではなく"人"に大きく残っている。
人の運命のことなので「100%絶対」と明言できないが、星野さんがドラゴンズの監督をやっていなければ、現在のドラゴンズを率いる森繁和監督、そして小笠原道大2軍監督はドラゴンズでは実現しえなかったと言えよう。その縁の輪の中には、落合博満さんという存在があるのだが・・・。
39歳でドラゴンズ監督に就任した星野さんは、1対4という球団史上に残る大トレードによってロッテオリオンズ(当時)から2年連続の三冠王・落合博満選手を獲得した。
その後1993年(平成5年)にFA第1号として讀賣ジャイアンツのユニホームを着た落合さんだが、2003年(平成15年)にドラゴンズの監督に就任、翌年から8シーズン指揮を執りリーグ優勝4回、53年ぶりの日本一、そして8年間すべてAクラスという黄金期を築いた。
星野さんがドラゴンズ監督をしていなければ落合さんとドラゴンズの縁はなかったわけで、監督としてのこの黄金期もなかったかもしれない。この時期に参謀として落合野球を支えたのが森繁和さんだった。
一方、小笠原選手は2013年に讀賣ジャイアンツからFA宣言しドラゴンズに入団。そして2015年の現役引退と共に2軍監督として指導者になるが、この時のGM(ゼネラルマネジャー)が日本ハムファイターズに在籍中に打撃を通して信頼関係を結んだ落合さんだった。星野-落合-森・小笠原の縁が今日に生き続けている。
また星野さんは監督時代にその後にドラゴンズの根幹を成した多くの新人選手を入団させている。
新監督としての1986年(昭和61年)ドラフト会議で5球団によるクジ引きに勝って獲得した近藤真一投手(当時)、翌年のドラフトでまたもクジ引きで獲得した立浪和義内野手を筆頭に、福留孝介内野手、岩瀬仁紀投手、川上憲伸投手などを次々と入団させた。
忘れてならないのは1983年(昭和58年)ドラフト5位で入団した山本昌投手である。入団からなかなか活躍できなかった山本投手をドジャースに留学させて、セ・リーグ優勝の1988年(昭和63年)シーズン途中に呼び戻して大活躍させた。
50歳まで現役を続け、最年長登板や球団記録219勝の達成など、エースの道を歩んだのも星野さんとの出会いがあったからこそである。
他球団のことを言えば、阪神タイガース時代に広島カープから金本知憲選手を獲得していなければ、現在の金本阪神監督も実現していない。
単なる1チームの監督に留まらず、球界全体を見据えて人を活発に動かした星野さんの外交力があったればこそ、結実した果実は枚挙にいとまがない。
有望な新人選手の獲得、そして大胆なトレードも多かった。そこにも色紙に書かれた言葉・・・「夢」があった。
多くの野球人が星野さんを偲び、それを見つめてきた多くのファンが早すぎた死を悼むのは、その足跡の大きさ、そして皆が一緒に「夢」を描くことができたからであろう。
北谷町役場ではキャンプ期間中、窓口に立つ職員たちがドラゴンズのユニホーム姿で仕事している。キャンプに訪れるドラゴンズを盛り上げるためである。沖縄の町役場にあふれるドラゴンズブルー。
ナゴヤドームがあるドラゴンズの本拠地・名古屋市の市長は、折りに触れ『燃えよドラゴンズ!』~中日球場バージョン~を独唱するが、竜のホームタウン挙げてドラゴンズを盛り上げるためにも、この北谷町の心意気を参考にしていただいてはいかがだろうか。
【東西南北論説風(34) by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
沖縄発・ドラゴンズ"松坂キャンプ"総括
北辻利寿
「ことしのドラゴンズは多いよ~ファンも報道陣も・・・。全然違うもん」
那覇空港から中日ドラゴンズ1軍キャンプ地である北谷町が近づくと、タクシーの運転手さんが楽しそうにこう話してくれた。
北谷町役場を訪ねると野国昌春町長も今年のキャンプについて、開口一番、目を大きく見開いてこう感想を語った。「恐ろしいことになっています」と・・・。キャンプ地を訪れる人の数がとにかく半端ではないそうだ。
ドラゴンズは2月28日に春季キャンプを打ち上げた。
タクシーの運転手さんと北谷町長、この2人が口を揃えて話すように、キャンプ地にかつてないほどの人を集めたのは、現在のドラゴンズに最も遅く加わった選手、松坂大輔である。「松坂ドラフト」「松坂世代」と呼ばれるように、常にその名前が冠となった松坂投手だが、今年のドラゴンズのキャンプはまさに「松坂キャンプ」と呼べるのだろうか。
私が現地入りした時はすでにキャンプも最終盤だったが、それでも松坂投手の一挙手一投足が注目され、松坂投手が動くところにファンやカメラマンが殺到していた。
周囲何メートルかに漂う独特な空気感と言い、"スーパースター"とはまさにこういうものかと目の当たりにすることができた北谷球場だった。
キャンプ総括を書くにあたって最初にきびしい話をするならば、5年連続Bクラスという現状は決して甘いものではないということである。
どんな新戦力が加わったとしても、成績予想を積み上げる実績ベースを去年に置く限り、この現実から目を背けてはいけない。
それを踏まえた上で、北谷では今季のドラゴンズを次の2つのポイントから注目してみた。
最初のポイントは「先発投手陣の整備」である。
広いナゴヤドームを本拠地とする以上、「打ち勝つ野球」より「守り勝つ野球」を掲げるべきことは明白である。しかしこのところドラゴンズは先発投手陣がほぼ崩壊、2年連続で二桁の勝ち星をあげた投手がひとりもいないという厳しい状況である。
今季に先発として期待したい候補は多い。小笠原慎之介、柳裕也、鈴木翔太のドラフト1位トリオ。柳と同じ2年目の笠原祥太郎。今年再び先発に挑戦する北谷町出身の又吉克樹。久しぶりのメジャー活躍投手であるディロン・ジー。大野雄大、吉見一起、そして山井大介という実績あるメンバー。さらにキャンプの"主役"だった松坂大輔。名前は次々と挙がる。
それでもキャンプを視察したあるOB評論家は「現在まだ計算できる投手がひとりもいない」と断言していた。それがBクラスチームの現実なのである。
あえて1人キーマンを挙げるならば、3年目の小笠原投手であろう。オープン戦の開幕試合に登板し4回をノーヒットに抑えたピッチングは、現在のドラゴンズに不在である"エース"の座につく期待を持たせた。
もう1つのポイントは「センターラインの整備」である。
捕手~二遊間(二塁・遊撃)~中堅手、この4人を結ぶラインは「センターライン」と呼ばれ、守備における根幹である。ドラゴンズのリーグ制覇の歴史を見ても、強い時代のセンターラインには納得できる顔ぶれが並んでいる。
与那嶺要監督の下で20年ぶりのセ・リーグ優勝をした1974年(昭和49年)は「木俣達彦~高木守道~広瀬宰~谷木恭平(大島康徳)」。
近藤貞雄監督の野武士野球で優勝した1982年(昭和57年)は「中尾孝義~上川誠二~宇野勝~平野謙」。
星野仙一監督で昭和最後の優勝となった1988年(昭和63年)は「中村武志~宇野勝~立浪和義~彦野利勝」。
同じく星野監督で開幕11連勝から優勝を成し遂げた1999年(平成11年)は「中村武志~立浪和義~福留孝介~関川浩一」。
そして落合博満新監督でいきなり優勝した2004年(平成16年)は「谷繁元信~荒木雅博~井端弘和~アレックス・オチョア」
特に2004年からの二遊間は「アライバ」と称された名コンビで、そろって6年連続のゴールデングラブ賞を受賞しドラゴンズの黄金期を築いた。
このように、センターラインの重要性は歴史が証明しているのだが、昨今のドラゴンズはセンター大島選手以外、他3ポジションを固定できない状態だった。昨季ようやくショートに京田が落ち着いた。
今年のキャンプを終えて見えてきたのは「大野奨太~高橋周平~京田陽太~大島洋平」という布陣であり、これまで期待を裏切り続けてきた高橋周平がセカンドに納まれば、久しぶりにセンターラインが確立しそうである。その意味でキーマンは7年目の高橋である。
今年のドラゴンズのキャンプは讀賣ジャイアンツのようなインフルエンザ禍もなく、また目立ったケガ人もなかった。その意味では順調だったと言えよう。
しかし、かつて落合監督がノックによって森野将彦内野手を失神させたような猛特訓風景は表向きあまり見られなかった。
キャンプの成果はこれから続くオープン戦でさらに熟していく。「先発投手陣」と「センターライン」この2つの整備の行方に注目したい。
今はどのチームも明るい話題や評判が多い時期だが、やがて真実の実力が見え始める。
ドラゴンズには5年連続Bクラスという現状、そして「挑戦者」の立場を忘れずに、大切な1か月を戦ってほしい。3月30日のペナントレース開幕までもう1か月である。
【東西南北論説風(33) by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
藤井vs羽生対局 ・ 将棋ミステリーも人気!
北辻利寿
【CBCテレビ イッポウ金曜論説室】
昇段したばかりの藤井聡太五段と、国民栄誉賞を受けた羽生善治竜王の注目の対局。
2月17日、東京都内で行なわれる対局を見ようと会場のホール席は完売し、まさに棋界の「夢の対決」を印象づけています。
この藤井聡太さんや、昨年の引退後に活動のフィールドを大きく拡げた加藤一二三さんらの活躍によって、将棋人気はますます高まっています。そんな中、去年8月に出版された1冊の本も注目を集めています。
『盤上の向日葵』(中央公論新社)。将棋界を舞台にしたミステリーで、人気作家である柚月裕子さんが書きました。
埼玉県の山中で発見された白骨死体の近くに伝説の名人が作った将棋の駒が置かれていたことから、事件を追う刑事2人の捜査が将棋界に展開されていくというストーリーです。560ページを超える大作ですが、発売以来版を重ね、出版元の中央公論新社によりますと、現在9刷52000部というベストセラーです。
将棋をテーマにした小説は、この他にも新人ミステリー作家の登竜門と言われる乱歩賞を受賞した斎藤栄さんの『殺人の棋譜』、浅見光彦シリーズで人気の内田康夫さんが書いた『王将たちの謝肉祭』などがあります。
映画では松山ケンイチさん主演の『聖の青春』、そして最近では神木龍之介さん主演で前後篇の大作となった『3月のライオン』が評判でした。
テレビドラマでは、今から20年ほど前の1996年(平成8年)にNHKの連続テレビ小説で放送した『ふたりっ子』でしょうか。大阪の下町を舞台に大石静さんが描いた脚本、登場人物が生き生きと躍動した朝ドラでした。「オーロラ輝子」という劇中の歌手も人気者となりました。
また歌では何と言っても村田英雄さんの『王将』。1961年(昭和36年)に発表された昭和の名曲であり、村田さんの代表曲でもあります。橋幸夫さんも1982年(昭和57年)に「あばれ駒』という歌を発表しています。このように将棋はいろいろな分野のテーマとして取り上げられています。
『盤上の向日葵』は、週刊文春が選ぶ2017年ミステリーベスト10の第2位に選ばれるなど高い評価を受けている他、4月10日に発表される本屋大賞、そのノミネート
10作品にも選ばれるなど注目を集め続けています。
本の中には、ライバル対決や師弟対決などヒリヒリするような対局が描かれていますが、
「決して緩手(かんしゅ)を指さない」
「真剣はな、気合で斬り込んでこそ、勝機が開けるんだ」
「俺は必ず勝つ。お前に一生忘れられない将棋を見せてやる」
このように将棋ファンならずともワクワクするようなセリフも登場しています。
藤井聡太五段は羽生善治竜王との対局に続き、今後は師匠である杉本昌隆七段との対局も予定されています。
若き棋士がどこまで登りつめていくのか、ベストセラー本を片手にそれを見守っていくのも楽しいかもしれません。
【イッポウ「金曜論説室」より by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
平昌五輪と「虹と雪のバラード」
北辻利寿
画像:足成
トワ・エ・モワが歌う『虹と雪のバラード』が街に流れていた。
1972年(昭和47年)2月、アジアで初めての冬季オリンピック大会が札幌で開催され、日本中はオリンピックムードに染まった。
このオリンピック閉会直後に社会を震撼させた連合赤軍による「あさま山荘事件」が起きている。その意味では、歴史のタイミングというのは紙一重なのだろう。
札幌オリンピックに合わせて、小学校では「五輪ごっこ」が人気だった。
ワックス掃除が終わったばかりのピカピカの廊下でスピードスケートの選手をまねて両腕を振りながら滑ってみたり、友人にズボンの背中側のベルトをつかんでもらい前傾姿勢をとってジャンプ競技の真似をしたり、子供ながらに興奮の日々を過ごした記憶がある。
ゼッケン「45」番をつけて70メートル級ジャンプ(当時)で金メダルを獲った"日の丸飛行隊"笠谷幸生選手の勇姿は記憶に焼きついている。
平昌五輪での熱戦が続いている。今の子供たちは、このオリンピックをどう受け止めて、どう楽しんでいるのだろうか。
雪や氷の上での熱い戦いの一方で、北朝鮮の参加によって、この大会が一気に政治色を増したことは間違いない。
開会式での南北朝鮮チームの統一旗を先頭にした入場行進、そして聖火リレーでの両国選手のバトン。こうした姿をスタンドで見守るのは、来賓として訪れた北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の妹である金与正党第一副部長、そして金永南最高人民会議常任委員長。
韓国の文在寅大統領の歓待モードを相まって「ほほえみ外交」なる言葉も登場した。文大統領への訪朝も親書によって要請された。
この南北融和ムードを見ながら、つい1か月前までの北朝鮮の核・ミサイル開発をめぐる国際的緊張は一体どこへ行ってしまったのかと不思議な気持ちになる。
またメディアに身を置く立場として僭越なのだが、「北朝鮮情勢が緊迫」「Jアラートとは?」「今年の漢字は"北"」などと伝えてきながら、北朝鮮の五輪来韓メンバーらを「美女応援団」「美女軍団」などと持ち上げる違和感も否めない。
「平和の祭典」と言われるオリンピックだが、その歴史を振り返ると国際政治との関係は深い。あらためてその思いを強くしたのは、平昌五輪開会式の入場行進で日本選手団の副団長として参加した山下泰弘さんの姿を見たためでもある。
柔道選手として一世を風靡した山下さん。1984年(昭和59年)ロサンゼルスオリンピックでの金メダル獲得などによって国民栄誉賞も受けたスポーツ界のヒーローであるが、その4年前には涙を見せていた。
ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカが1980年(昭和55年)8月にモスクワで開催されたオリンピックをボイコット、西側友好国に対しても大会不参加を呼びかけた。日本も追随してこの年の五輪参加を見送った。
当時「金メダル確実」と見られていた山下選手は悔し涙を流したのだった。
山下選手がケガをしながらも無差別級決勝でエジプトのラシュワン選手を破って金メダルを手にした1984年ロス五輪については、今度はソ連はじめ東側諸国がボイコット。
1988年(昭和63年)のソウルオリンピックにて12年ぶりようやく世界各国の揃い踏みが復活した。
札幌冬季オリンピックの同じ年、1972年9月には、ミュンヘンオリンピックの選手村にパレスチナのテロリストが侵入し、イスラエル選手らを殺害する事件も起きている。
混迷する中東情勢の中で起きた、五輪最大の悲劇である。
さらに歴史をさかのぼれば1936年ベルリンオリンピックは、当時ドイツで台頭していたアドルフ・ヒトラーのナチス政権が、プロパガンダに利用した大会として刻まれている。大会の裏にある軍国主義や反ユダヤ主義を感じ取ったヨーロッパやアメリカはボイコット運動を行ったが、この時は不参加までは至っていない。
そして、その後に第二次世界大戦が勃発したことは、歴史が証言している通りである。
平昌五輪も、各競技が進むに連れてようやく選手たちが主役の座につき、開会式で世界に示された政治色は日々薄くなっている感があるが、この五輪後には延期されていた米韓合同軍事演習も再開される見通しである。
再び緊張が訪れるのか。北朝鮮をめぐる情勢は「ほほえみ外交」という言葉とは裏腹に予断を許さない。
『虹と雪のバラード』では、歌の中でオリンピックのことを「きみ」と呼びかけていた。平昌五輪、「きみ」は大会後の北朝鮮情勢にどんな実りを残してくれるのだろう。
【東西南北論説風(31) by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】