2018年3月

「そだねー」から考える「レジェンド」の道

北辻利寿

2018年3月 8日

平昌五輪が幕を閉じ、次は平昌パラリンピックの開幕である。

先に開催された五輪は過去最多のメダル数13個(金4・銀5・銅4)を獲得し、日本中を連日大いに沸かせた。同時に思いもよらぬ副産物も残した。カーリング女子チームの試合から生まれた「そだねー」そして「もぐもぐタイム」という、今年の「流行語大賞」候補の言葉である。

 

氷の上で真剣に戦う彼女たちがそもそも「流行語」を意識したわけはなく、さりげなく普通に使った言葉、そして日常通りの行動、これが一躍注目を集めたのだから、世の中は何が起きるか本当に面白い。

ウケを狙ってうまくいくこともあるが、自然発生的だからこそより多くの支持を集めたのだろう。この1か月、学校や職場など自分の周囲で「そだねー」という言葉を耳にする人も多いのではないだろうか。

 

五輪から生まれた流行語としては、最近では4年前ソチ五輪の際の「レジェンド」がある。当時41歳のスキージャンプ代表・葛西紀明選手が、個人ラージヒルで銀メダル、団体ラージヒルで銅メダルを取ったことから、その年の「2014ユーキャン新語・流行語大賞」(現代用語の基礎知識選)のトップテンに選ばれた。

 

その「レジェンド」葛西選手にとって今回の平昌五輪は実に8度目のオリンピック出場だった。多くのアスリートたちが頂点として目指す大会に8回も出場するということは、大変なことである。葛西選手は45歳。「レジェンド」と呼ばれ、たゆまぬ努力と衰えぬ闘志は、欧米の選手からもリスペクト(尊敬)される存在である。

しかし、この五輪は不調だった。個人ノーマルヒルは21位、個人ラージヒルは33位とまったくふるわず、それでも出場した団体競技も2回のジャンプ共にK点に及ばず、日本は6位に終わった。

「僕の力は半分しか出していない」すべての競技を終えた直後の葛西選手の言葉である。そして4年後の北京五輪について「目指すというか、絶対に出ます」とした。その意気込みは良しとしても、オリンピックの舞台で「半分しか力を出せなかった」ことを葛西選手本人はどう総括しているのだろうか。その分析を待たずしての"4年後の出場宣言"は、やや時期尚早な印象を否めない。

日本ジャンプ陣の喫緊の課題は「世代交代」と言われる。49歳の葛西選手が北京の空の下、ジャンプ台に立つことができるかどうか見守りたい。

 

4年前の「2014ユーキャン新語・流行語大賞」表彰式に、この葛西選手と並んで出席したのが、当時プロ野球の中日ドラゴンズ投手だった山本昌さん(本名:山本昌広)である。

この時の山本さんは49歳でプロ野球最年長登板や最年長勝利の記録を更新中だった。やはり「レジェンド」と呼ばれていた。その山本昌さんは3年前に50歳で引退した。

 

1983年(昭和58年)ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団した山本昌投手は、ドジャース留学から戻った1988年(昭和63年)シーズン途中からいきなり5勝をあげてリーグ優勝に貢献、頭角を現す。2度の最多勝、最優秀防御率、沢村賞などの投手タイトルを次々と獲得、2015年の引退までに219勝165敗5セーブの成績を残した。

この実績以上に、山本投手の名を知らしめたのは勤続年数である。

2006年(平成18年)9月、プロ野球最年長でノーヒットノーランを達成したことを始め、50歳でマウンドに立つなど、「レジェンド」という言葉が「長く活躍するアスリート」を同時に表現するならば、まさにその称号にふさわしい野球人生だった。

 

ドラゴンズの監督をつとめた落合博満さんが常々言っていた言葉がある。

「この世界(プロ野球)はユニホームを脱ごうと思って脱げる選手と脱がされる選手がいる。自分の意志でユニホームを脱げる選手になれ」

山本昌投手は自分で引退を決めたが、その時の言葉はこうであった。

「若返りを進めるドラゴンズを見て、自分が残ったら駄目だと感じて引退を決めた」

 

現在、同じドラゴンズには山本昌投手に続き、最近「レジェンド」と呼ばれ始めた岩瀬仁紀投手がいる。昨シーズンにプロ野球記録の950試合登板を達成し、次に注目される記録は前人未到の1000試合登板である。

今季の岩瀬投手はそれをめざして歩み続けるだろうが、常に引き際と背中合わせの立場に置かれていることも事実である。それが「レジェンド」の宿命であろう。

 

「レジェンド」と呼ばれるアスリート本人の夢そして見守るファンの夢、それらはとても素晴らしい。しかし同時に、その夢を達成する道は、常に世代交代と同時平行で走る道でもある。

「そだねー」が早くも強烈な印象を残している「流行語大賞」戦線だが、去年の大賞は「インスタ映え」そして「忖度」だった。スポーツの世界は言うまでもなく、舞台に立つ瞬間での実力優先。「レジェンド」と呼ばれる選手への遠慮や気遣いがあっては、むしろそれは本人に対して失礼であろう。

そこに周囲の「忖度」が入りこまず、皆が「そだねー」と納得して応援できる舞台であることを願ってやまない。

 

東西南論説風(35)  by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

 

星野仙一さんが沖縄とドラゴンズに残した「夢」

北辻利寿

2018年3月 2日

中日ドラゴンズの春季1軍キャンプ地である沖縄県北谷町、役場3階の町長室に「夢」と書かれた色紙が額に入れて飾られている。

今年1月に急逝したドラゴンズの元投手であり元監督の故・星野仙一さんが生前に北谷町に贈ったものだ。

 

ドラゴンズが北谷町をキャンプ地に選んだのは1996年(平成8年)、あれから23回目のキャンプとなった。

同じ沖縄の石川球場などで行っていたキャンプを北谷町に変更したのは、当時2度目の監督に就任したばかりの星野さんだった。

北谷町の人たちにとって星野さんへの思いは格別なもので、今年のキャンプ中は北谷球場入口近くには「星野仙一監督北谷メモリアルブース」が設けられた。北谷町と生前の星野監督の関係を記録した写真パネル24枚が飾られ、キャンプ地を訪れる人たちが次々と足を運んでいた。

 

野国昌春町長は星野監督の思い出について語る・・・。

ドラゴンズの監督を辞めた後、阪神タイガースの監督を経て、星野さんは東北楽天イーグルスの監督に就任した。北谷球場でドラゴンズとのオープン戦が開催された時、相手側3塁側ベンチにいる星野さんに挨拶に行ったら、「町長、ドラゴンズのことをしっかり頼むよ!」と激励されたそうだ。

敵将になってもドラゴンズへの愛を語る、その温かい魅力が忘れられないと、野国町長は懐かしそうに遠くを見つめた。「闘志と優しさの両方を持った人だった」と・・・。

 

北谷球場近くには今年のキャンプに合わせて、常設の投球練習場が新たにお目見えした。

ドラゴンズタウンとしての熱を地元の少年野球の子供たちにも、との願いをこめて町が予算をかけて新設したブルペンである。ドラゴンズ投手陣も連日気持ちよさそうに投げ込みを行なった。

星野さんが北谷町に撒いた"キャンプ地"としての種は、大きく育って花を咲かせ続けている。

 

星野さんがドラゴンズに残した足跡は"キャンプ地"だけではなく"人"に大きく残っている。

人の運命のことなので「100%絶対」と明言できないが、星野さんがドラゴンズの監督をやっていなければ、現在のドラゴンズを率いる森繁和監督、そして小笠原道大2軍監督はドラゴンズでは実現しえなかったと言えよう。その縁の輪の中には、落合博満さんという存在があるのだが・・・。

 

39歳でドラゴンズ監督に就任した星野さんは、1対4という球団史上に残る大トレードによってロッテオリオンズ(当時)から2年連続の三冠王・落合博満選手を獲得した。

その後1993年(平成5年)にFA第1号として讀賣ジャイアンツのユニホームを着た落合さんだが、2003年(平成15年)にドラゴンズの監督に就任、翌年から8シーズン指揮を執りリーグ優勝4回、53年ぶりの日本一、そして8年間すべてAクラスという黄金期を築いた。

星野さんがドラゴンズ監督をしていなければ落合さんとドラゴンズの縁はなかったわけで、監督としてのこの黄金期もなかったかもしれない。この時期に参謀として落合野球を支えたのが森繁和さんだった。

一方、小笠原選手は2013年に讀賣ジャイアンツからFA宣言しドラゴンズに入団。そして2015年の現役引退と共に2軍監督として指導者になるが、この時のGM(ゼネラルマネジャー)が日本ハムファイターズに在籍中に打撃を通して信頼関係を結んだ落合さんだった。星野-落合-森・小笠原の縁が今日に生き続けている。

 

また星野さんは監督時代にその後にドラゴンズの根幹を成した多くの新人選手を入団させている。

新監督としての1986年(昭和61年)ドラフト会議で5球団によるクジ引きに勝って獲得した近藤真一投手(当時)、翌年のドラフトでまたもクジ引きで獲得した立浪和義内野手を筆頭に、福留孝介内野手、岩瀬仁紀投手、川上憲伸投手などを次々と入団させた。

 

忘れてならないのは1983年(昭和58年)ドラフト5位で入団した山本昌投手である。入団からなかなか活躍できなかった山本投手をドジャースに留学させて、セ・リーグ優勝の1988年(昭和63年)シーズン途中に呼び戻して大活躍させた。

50歳まで現役を続け、最年長登板や球団記録219勝の達成など、エースの道を歩んだのも星野さんとの出会いがあったからこそである。

他球団のことを言えば、阪神タイガース時代に広島カープから金本知憲選手を獲得していなければ、現在の金本阪神監督も実現していない。

 

単なる1チームの監督に留まらず、球界全体を見据えて人を活発に動かした星野さんの外交力があったればこそ、結実した果実は枚挙にいとまがない。

有望な新人選手の獲得、そして大胆なトレードも多かった。そこにも色紙に書かれた言葉・・・「夢」があった。

多くの野球人が星野さんを偲び、それを見つめてきた多くのファンが早すぎた死を悼むのは、その足跡の大きさ、そして皆が一緒に「夢」を描くことができたからであろう。

 

北谷町役場ではキャンプ期間中、窓口に立つ職員たちがドラゴンズのユニホーム姿で仕事している。キャンプに訪れるドラゴンズを盛り上げるためである。沖縄の町役場にあふれるドラゴンズブルー。

ナゴヤドームがあるドラゴンズの本拠地・名古屋市の市長は、折りに触れ『燃えよドラゴンズ!』~中日球場バージョン~を独唱するが、竜のホームタウン挙げてドラゴンズを盛り上げるためにも、この北谷町の心意気を参考にしていただいてはいかがだろうか。

 

東西南論説風(34) by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】