お盆に思う阿久悠さんと国民栄誉賞
北辻利寿
画像:足成
お盆を迎えた。
不思議なもので、毎年この時期は亡き人に思いを馳せる気持ちになる。
「偲ぶ」というほどに時は経っていないが、この夏、ふたりの音楽家が旅立っていった。
作曲家・平尾昌晃さん(享年79)と作詞家・山川啓介さん(享年72)である。
そして、その訃報に接してお二人の功績、それぞれがお作りになった歌が実に多種多彩で魅力にあふれていたのかを再認識した。
あらためて驚いたと言っても過言ではない。
平尾昌晃さんは、何と言っても五木ひろしさんと小柳ルミ子さんという二人に作った名曲が浮かぶ。
五木さんの『よこはま・たそがれ』そして日本レコード大賞を受賞した『夜空』、小柳さんのデビュー曲『わたしの城下町』そして『瀬戸の花嫁』は日本の歌謡史において今も輝きを放っている。
そして教え子であった畑中葉子さんとのデュエット『カナダからの手紙』。
平尾さん死去の後で「平尾さんの曲と言えば何?」というアンケートがあったが、断然トップだったのがこの歌だった。
個人的には水谷豊さんの『カリフォルニア・コネクション』そして先ほどの五木さんの『別れの鐘の音』などが好きだが、その平尾さん、ドラマ「必殺シリーズ」の曲も手がけていた。
歌手も俳優もおやりになり実に幅広い。
年末のNHK紅白歌合戦のラスト、『蛍の光』の指揮者でおなじみの平尾さんと違って、山川啓介さんは訃報をきっかけにその作品群を見直したのだが・・・。
岩崎宏美さんの『聖母たちのララバイ』、中村雅俊さんの『ふれあい』などの名曲の他、矢沢永吉さんの代表曲『時間よ止まれ』も山川さんの作品と知り、これも驚きだった。
個人的には大好きだった青春ドラマ『飛び出せ!青春』主題歌『太陽がくれた季節』が浮かぶ。
そして、平尾さんの「必殺シリーズ」同様に、山川さんも『勇者ライディーン』シリーズをはじめアニメや特撮の主題歌を沢山書き残している。
こちらも幅広い活躍だった。
訃報によってあらためて作品をたどり、その偉大な功績に触れたお二人と違って、この夏で没後10年を迎えた阿久悠さんの場合は、相当数の作品を生前から十分認識していた。
特に1971年(昭和46年)から1980年(昭和55年)の10年間に、『また逢う日まで』『北の宿から』『勝手にしやがれ』『UFO』『雨の慕情』と作詞作品が5回も日本レコード大賞を受賞したことは、日本の歌謡史に輝く功績である。
先日もテレビで阿久さんの追悼特集を放送し『ジョニィへの伝言』『五番街のマリーへ』なども披露されていたが、いつも思うことは、なぜ「国民栄誉賞」に選ばれなかったのだろうか、という疑問である。
国民栄誉賞は、1977年(昭和52年)にプロ野球選手だった王貞治さんが最初に受賞して以来、これまでに24の受賞例(個人23・団体1)がある。
この内、作曲家は、古賀正男さん、服部良一さん、吉田正さん、遠藤実さんの4人が入っているが、作詞家はひとりもいない。
「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」と基準にあるが、この国民栄誉賞は、時の政権の思惑が大きく影響するということは否めない。
賞の価値や権威についてはそのまま認めることに異論もあろうが、阿久悠という作詞家の評価がそうした政治の隙間に入り込んでしまっていたのなら、やはり残念だと思う。
もうひとり、この夏に30周忌を迎えたのが俳優であり歌手でもあった石原裕次郎さん。
美空ひばりさんと並ぶ"昭和の大スター"だが、受賞者の美空さんと違い、石原さんも国民栄誉賞を受賞していない。
こうして見ると、この手の賞というものは気まま側面があるものだと、これも再認識してしまった。
もっとも阿久さん同様、賞以上の思いが、多くの人たちから寄せられたことは今さら言うまでもないが・・・。
阿久さんの書いた作品の中で好きな歌に沢田研二さんの『時の過ぎゆくままに』がある。逝く人、逝った人、時の過ぎゆくままに思いを馳せながら、ふとこの歌を口ずさむ今年のお盆である。
【東西南北論説風(5) by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
「平和首長会議」...核兵器のない世界の実現をめざして
後藤克幸
●長崎市で4年に1回の「平和首長会議」が開かれました
1982年に広島市と長崎市の市長の呼びかけで設立された「平和首長会議」には、
世界の162の国と地域から7400を超える都市が加盟しています。核兵器廃絶を目指して
世界の街が連携しようと、4年に1回、広島と長崎で交互に開かれます。今年はその開催年。
8月7~10日の3日間、「核兵器のない世界の実現をめざして」をテーマに長崎市で開かれました。
●今回の「平和首長会議」がとくに世界から注目される理由があります。
7月に国連で「核兵器禁止条約」が国連加盟国の6割以上の賛成を得て採択されました。戦後初めて、国連の場で「核兵器は違法な兵器」と明確に位置づけられました。しかし、世界唯一の被爆国の日本と、アメリカ、ロシアなどの核保有国は、この条約に賛同しませんでした。
その直後に開かれた今回の「平和首長会議」では、採択された「核兵器禁止条約」を具体的に機能させ世界の核兵器廃絶を実現するために世界の各都市が何をすべきか?また、核保有国に対して条約への早期の参加を促すためにどのようなアピール活動をすべきか?・・・など、とても重要な話し合いが行われる会議となるからです。
●現実は厳しいのも事実。しかし・・・
「核兵器禁止条約」の採択は、被爆者の切実な声を反映した画期的な成果でしたが、それ自体がゴールではありません。世界には現在、1万5000発近い核兵器が存在しています。
長崎市の田上市長は、9日の長崎原爆の日の「平和宣言」で、『核兵器が必要と言い続ける限り核の脅威はなくなりません。核兵器を持つ国々と核の傘の下にある国々に訴えます。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直して下さい。日本政府に訴えます。核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への1日も早い参加をめざし、核の傘に依存する政策の見直しを進めて下さい。日本の参加を国際社会は待っています』と強く訴えました。そして、「平和首長会議」にもふれて田上市長は、『世界7400の都市が参加する平和首長会議のネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の
仲間たちとともに世界に発信します』と宣言。
●そして「平和首長会議」最終日の8月10日。
国連で7月に採択された「核兵器禁止条約」の早期発効をめざして、すべての政府に署名と批准を求めていくことを掲げた「ナガサキアピール」を発表して、会議は閉幕しました。
「ドラゴンズ苦闘の中に光あり」
北辻利寿
画像:足成
中日ドラゴンズの苦しい戦いが続いている。
球団創設80周年の記念イヤーだった去年は19年ぶりに最下位に沈み、4年連続Bクラスという球団ワースト記録を更新してしまった。
谷繁元信監督がシーズン途中に休養するという、80周年のお祝いにはほど遠いシーズンだった。
そして、森繁和新監督を迎えての2017年シーズン。
現在まで100試合余りを戦ってきたが、2ケタの借金を抱えての5位と、なかなか勢いに乗り切れない。
しかし、キラリと光るゲームも数々ある。
最近では8月6日、東京ドームでの讀賣ジャイアンツ戦。
先制した1点を守備のミスもあって4対1と逆転された。
しかし藤井淳志選手の初球打ち3ランで同点にすると、8回にルーキー京田陽太選手が再びリードするタイムリーヒット。
それを日本ハムからトレードで移籍したばかりの谷元圭介投手が0点でつなぎ、そして・・・。
9回のマウンドに上がったのは今シーズン不動の抑えである田島慎二投手ではなく、岩瀬仁紀投手だった。
岩瀬投手にとって、この登板はとてつもなく重いものだ。
なぜなら、2日前に試合で記録に並んだ歴代最多登板の単独トップに立つ950試合目だったからである。
このところ田島投手が東京ドームの抑えで失敗続きということもあるのだが、ベンチは実に粋な采配をするものだと感心した。
ましてや相手はジャイアンツなのだ。岩瀬投手は9回を抑え404セーブ目によって950試合登板という大記録に自ら花を添えた。
そしてこの記念ゲームをさらに光ったものにしたのが、守備陣の"ファインプレー"である。
一死一・二塁のピンチ、坂本勇人選手の大飛球はセンター大島洋平選手によって好捕されたが、スタートしていた一塁ランナー重信慎之介選手がすでに越えていた2塁を踏み直さずに1塁へ戻るという帰塁ミス。
野球規則により「通過したベースを踏みなおさねばならない」のだが、これをドラゴンズの内野陣が見落とさず、プレー再開と共にアウトにしてゲームを終えたのだ。
野球には実に様々なルールがあるが、グランドの上でそれを実践することは鉄則。
ましてこれはアピールした場合に適用されるプレーなのだ。
ドラゴンズナインが集中してゲームに臨んでいた証しであろう。
岩瀬起用というベンチ好采配と共に、2017年シーズンの歴史に刻まれる一試合となった。
「見逃さない」プレーは今年もうひとつあった、6月10日、京セラドームでのオリックスバッファローズ戦。
ホームランを打ったクリス・マレーロ選手が本塁ベースを踏まなかったことをドラゴンズの松井雅人捕手が見逃さず、ホームランは取り消しとなった。
かつて高校時代に読んだ野球漫画『ドカベン』で、岩鬼正美選手が夏の甲子園大会決勝でホームランを打つも三塁ベースを踏み忘れるミスを冒したが、ふとそれを思い出す珍しいシーンだった。
こうしたドラゴンズ選手の緻密なプレーを見ると、野球ルールを熟知していた落合博満監督に率いられ優勝を繰り返した2000年初頭の頃を懐かしく思い出す。
反対に「おや?」と思う采配もあった。
4月1日の開幕2戦目ジャイアンツ戦。
前夜の開幕戦では、ルーキー18年ぶり開幕スタメンという京田選手が初ヒットを打つなど躍動。
しかし2戦目は相手が左投手ということもあってかスタメン落ちしたことだ。
若い選手は勢いが出ると強さを発揮する。その後の京田選手の活躍を見ればなおさらである。
もうひとつは、荒木雅博選手の2000安打がかかった6月3日の楽天イーグルス戦の1回裏。
先頭の京田選手がヒットで出塁した後、記録まで残り1本となった荒木が打席に入る。
ここは送りバントが定石だが、ベンチは荒木選手にバントではなくそのまま打たせたのだ。少しでも早く記録達成を期待する気持ちは誰もが同じ。
しかし野球はチームが勝たなければならない。
ここは迷いなく、送りバントでいくべきだった。
"個"にこだわっていては"チーム"は勝てない。
2007年日本シリーズでは、完全試合目前の山井大介投手を岩瀬投手に交代させた采配があった。
森監督はシーズン前に宣言したように各コーチを信じて、ベンチ全体でゲームに臨んでいる。
おそらく、監督というよりベンチ全体の判断なのだろうが、私だけでなく竜党仲間からも「あそこは送りバントだった」と同じ意見が届いた。
2017年ペナントレースも残り試合が3割を切った。
暑い夏にもやがて秋風が吹く。こうしてドラゴンズの戦いに好き勝手なことを言えるのもファンの特権である。
そしてその特権を存分に活かすためにも、球場に足を運んだり、テレビやラジオの中継で応援したり、とにかく"おらがドラゴンズ"の戦いを見ていてほしい。
愛してほしい。
それがチームを強くするために、ファンが歩む最も近道だと思う。
【東西南北論説風(4) by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
「山下達郎ライブの誤解に大慌て」
北辻利寿
画像:足成
先日、山下達郎さんのコンサートに出かけた。
会場は満席。
64歳を迎えたと自己紹介した達郎さんだが、そのパフォーマンスは素晴らしく、良質で上質の音楽を堪能した3時間半だった。
ライブで毎回必ず歌われる『クリスマスイブ』を会場で聴きながら、私はもう30年以上も前のこととなった"ある出来事"を思い出していた。
時代はまだ昭和だった。
今はなき愛知県勤労会館でのコンサートのことだ。山下達郎さんは名古屋公演で使っていたこのホールをとても気に入り、自らのアルバムのジャケットにもここでの舞台セット写真を使用したほどだった。
この時に大ヒットしていたのが『クリスマスイブ』である。
もともとは1983年(昭和58年)発売のアルバム『MELODIES』の収録曲だったが、国鉄から民営化してまもないJR東海が東海道新幹線のCM「クリスマス・エクスプレス」で歌を使用したことから人気が大爆発したのだった。
会場全体が、この『クリスマスイブ』をいつ歌うかと楽しみに待っていた。
そして達郎さんの曲紹介・・・
「この歌は少し前にアルバムに入れていたのですが、この度、JR東日本のコマーシャルソングに使われたことによって、一気に火がつきました。『クリスマスイブ』聴いて下さい」。
拍手。前奏。歌唱。
JR東日本? 私は違和感の中にあった。
「JR東日本」ではない。「JR東海」のCMなのだ。
当時の私は鉄道や航空など交通関係の取材を受け持ち、JR東海の取材担当でもあった。
さらにコンサートの語りの中で、その全国ツアーはちょうど名古屋が期間の折り返し点だということも披露されていた。
その勘違いのまま『クリスマスイブ』が紹介されて歌われていっては、あまりにJR東海が可哀想ではないか・・・。
翌日、JR東海の本社広報を訪れた私は、この一幕について告げた。
広報担当者は驚き、すぐに達郎さんの事務所に「誤解なきように」と訂正連絡していた。
鳴り物入りのキャンペーン。
楽曲にも費用がかかっている。にもかかわらず、同じJRグループとはいえライバルである「JR東日本」のPRをされてはたまらないという「JR東海」の本音・・・。
「よく教えてくれた」と感謝された私が広報室を出ると、一人の新聞記者が私を待っていた。一連の話をたまたま立ち聞きしていたという。
「テレビのニュースにはなりにくいネタでしょう?新聞で書かせてくれないかなあ」
数日後、このエピソードはユーモアあふれる記事として、新聞の社会面を飾ったのだった。
かつてコマーシャルソングは歌謡界で一世を風靡した。
特に『クリスマスイブ』の以前、1970年から80年代は、『君のひとみは10000ボルト』『Mr.サマータイム』『不思議なピーチパイ』など大手化粧品会社のものや、JRの前身である国鉄の『いい日旅立ち』など歌謡史に残る名曲が目白押しだった。
しかし21世紀に入った頃から次第に話題にならなくなり、最近では携帯電話会社の『海の声』くらいであろうか。テレビの歌番組も少なくなり、ネット購入によってCDも売れなくなった。
歌を取り巻く環境の激変が、コマーシャルソングにも投影されている。
名曲『クリスマスイブ』は30年連続オリコン週間シングルランキングでトップ100に入る偉業を成し遂げ、ギネス世界記録に認定された。
今回のライブでも達郎さんが曲紹介の際にそれを披露し大きな拍手を浴びた。やはり歌って素晴らしい!
【東西南北論説風(3) by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】
「花火」を楽しむウンチク...知っていれば、さらに楽しい夏の夜
石塚元章
画像:足成
花火の発祥は日本...ではなくて、ヨーロッパだった!?
夜空を彩る花火。庭先で楽しむ花火。いずれも日本の伝統文化には違いありませんが、実は、その発祥は日本ではありません。
火薬そのものは中国で発明されましたが、その後、ヨーロッパに伝わった火薬をもとに、キリスト教のイベントで「花火のようなもの」が最初に使われたといいます。練り歩く山車につけた火薬が、煙と音でイベントを盛り上げたとされています。今でいう「仕掛け花火」に近いのでしょうか。14世紀のことです。
日本に火薬や火縄銃の知識が伝わったのはもう少しあと、16世紀になりますね。
江戸の粋。「玉屋」と「鍵屋」ものがたり。
日本で、打ち上げ花火が庶民の楽しみとして花開くのは江戸時代です。とくに隅田川の花火大会は、今に至るまで代表的な花火イベントですよね。
1732年(享保17年)、「享保の大飢饉」が発生します。さらに伝染病の流行もあって、多くの人が命を落とします。当時の8代将軍・吉宗は、大川(隅田川)の川開き行事にあわせて慰霊と供養の施餓鬼を行い、花火も打ち上げるように指示したといいます。これが大掛かりな花火大会の起源とされています。
花火大会、実は死者を弔う行事の一環として始まったんですね。今も、地域によってはその伝統が残っています。
さて、その江戸で、花火業者として成功したのが「鍵屋」と「玉屋」。
夜空に上がっていく花火に向かって「かぎやー」、「たまやー」と掛け声をかけたというエピソードをご存知の方も多いと思います。
実は、圧倒的に「玉屋」の人気が上回っていた時期があったといいます。
「橋の上、玉や玉やの声ばかり。なぜに鍵やと言わぬ情なし」という狂歌があるそうです。「鍵屋」だけに、「情なし」は「錠なし」に通じる言い回しになっているところが、江戸の粋なところですね。
ただ、「玉屋」は、火事を出してしまったことなどから、一代で江戸から追放されてしまいます。
線香花火は、本当に「線香」みたいだった!?
さて、打ち上げ花火とは趣きも規模もまったく違いますが、線香花火も夏の夜の思い出につながります。
この線香花火。最初に作りだしたのは、さきほど紹介した「鍵屋」だったといわれています。藁や葦の先に火薬を詰めて、そこに火をつけて楽しむ...という形だったようですが、庶民にはなかなかの人気だったようです。
この線香花火、今のように手で持って下を向けて...ではなく、香炉や火鉢などに立てて、その先に(つまり上のほうに)火をつけて楽しんだようです。つまり、見た目もあきらかに"線香"状態だったわけですね。なるほど。
打ち上げ花火、ここを楽しむ
花火の専門家が指摘する打ち上げ花火のポイントがいくつかあります。
最高点まで上がった花火が、開花する直前に一瞬停止する「タメ」(専門家は「座り」と表現します)。最大限に開いたときの形(「盆」といいます)など。
さらに「消え口」。つまり、「消え方」。花火はバラバラに消えていってはダメなんですね。同時にスッと見えなくなるのがいい。確かに大きく花開いた花火も、ほぼ同時に闇に消えていきます。スッ。
そういえば線香花火も、消えていくタイミングと、その後のしみじみ感が魅力です。
この夏、花火そのものも楽しんだうえで、「消えていく美」も、ちょっと意識しみませんか。