CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』では、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。4月18日放送では、織田信長・豊臣秀吉・陣笠隊の足軽・太助の3名が出演し、「この日何の日?」コーナーで「赤塚の合戦」について取り上げました。赤塚の合戦が起こった日「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある中、話題は1552年4月17日に起こった赤塚の合戦について。豊臣秀吉「信長様、儂は1552年4月17日の時点で(信長に)仕えしておりませんでしたので。この赤塚の合戦というものが何なのかよくわかっておりませぬ」織田信長「これは、今の名古屋市緑区鳴海町字赤塚のあたりで起こった戦であって、これは簡単に言うと尾張国内の合戦。元々織田家の家臣じゃった山口教吉がの、謀反を起こして戦になった」この合戦について信長「裏切りの歴史が始まったようなものだ」と語る信長。この後49才で本能寺の変で斃れるまで、幾多の裏切りに遭ったことは歴史に残っている事実です。現在放送中の大河ドラマ『「豊臣兄弟!」でも、浅井長政(信長の妹・お市の方の夫。北近江・小谷城城主)からこの後裏切られると自虐しました。何ともやりにくい合戦だった理由この合戦は、織田信長が父・信秀の後を継いで最初に起こった戦いでもあります。ただし、信長によると「ご近所同士の大喧嘩」だったとのこと。そのため、戦をする足軽同士が皆顔見知りという、なんとも言えない気まずい状況だったとか。織田信長「で、強く攻め込めなくて儂は1500程度かな?お互い1000人程度の手勢での。亡くなったのは総勢50人程度じゃ。お互いに顔見知りすぎて、戦ができなかったんじゃ」現代の感覚からすると、死者が50人もいるとなりそうですが、当時の信長の感覚からすると合戦とはいってもあまりにも顔見知り同士が争ったために戦らしい戦ではなかったといいます。結局は、引き分けという結果に終わったのでした。裏切りの後味方にした兄とはこの後、織田信長は同じ母・土田御前から生まれた弟である信勝(信行)にも家督を巡って裏切られています。秀吉「信長様、しかしこの山口殿が裏切る前にも確か、兄上殿が(時期に諸説あり)」信長「ほほう、誰のことかと思えば。儂は嫡男ではあるが、一応母親違いの兄がおる。ただ、兄は正室(正妻)の子ではなかったゆえに家督を継ぐことはなく、その者ともまあいろいろとあったな(笑)」「母親違いの兄」とは、織田信広のこと。信勝(信行)が反旗を翻した「稲生の戦い」と同時期に、信広も美濃の斎藤義龍(道三の息子)と共謀していたのです。計画では、信長が美濃勢を迎え撃つために清洲城を空けた隙に、信広が城内から手引きして清洲城を奪取しようと画策しました。しかし、この計略は事前に信長に露見し、失敗に終わります。信長は裏切った信広を処刑せず、降伏を許して帰参させるという寛大な心を見せています。その後、信広は信長の忠実な家臣として一門衆の筆頭的な立場で支え続け、1574年の長島一向一揆との戦いで討死するまで織田家のために尽力しました。この後、信長が裏切りを受けた主なものと言えば、先述の浅井長政以外にも松永久秀・荒木村重・そして本能寺の変を引き起こした明智光秀などが挙げられます。裏切られ続けた人生だと嘆いた信長でしたが、赤塚の合戦は信長が「家督を継いでから初めて自ら指揮を執った合戦」としても記録されており、より記憶に残っていたのかもしれません。(葉月智世)