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信長の転機とは?間近で見てきた豊臣秀吉が解説

信長の転機とは?間近で見てきた豊臣秀吉が解説

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。5月16日放送では豊臣秀吉・加藤清正・陣笠隊の足軽・踊舞が出演し、織田信長の複数の転機について取り上げます。

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信長関連の出来事だらけの1週間

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。
いくつかある話題は全て織田信長関連のことばかり。そこで「信長様が大好き」と公言した豊臣秀吉が、説明することになりました。

豊臣秀吉「まずは1534年5月12日、信長様が生誕ということじゃが。尾張国のとあるところでお生まれになったんじゃがな、後に天下人になられるが生まれた家はそんなに偉くなかったんじゃ」

信長が生まれたのは、一般的には「織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)」と呼ばれる家系ですが、本家ではなく分家の更に分家という一族から見れば端っこ。決して本流ではなかったのです。父は織田信秀、母は土田御前として知られています。

身分があまり高い家とは言えなかったにもかかわらず、名を挙げたのは格上の名門であり、隣国の大大名だった今川義元を倒した桶狭間の戦い。この勝利によって「あの今川義元を少数で討ち取った」と名前が全国区へと一気に上がりました。

前田利家が許されたと伝わる森部の戦い

続いて、1561年5月14日に織田信長と斎藤龍興の間で起こった「森部の戦い」。

桶狭間の戦いで名を挙げた信長ですが、同時に敵も増えます。美濃国に侵攻したかった信長は美濃を治めていた斎藤家と争うことになったのがこの戦いです。

秀吉「この戦いでも、信長様は勝利を収めておるからの。前田利家は、当時織田家をクビ(追放)されておったんじゃけど、この戦いで利家が帰ってきたんじゃ」

踊舞「なにゆえに帰ってこられたんでしょうか?」

秀吉「要は、敵にものすごく強い足軽がおって我らも恐れておったんじゃ。その足軽を討ち取ってきたがゆえに、信長様もお許しになったんじゃ」

利家は若い頃、「槍の又左」と呼ばれるほどでしたが、一方で素行が悪いという問題が。特に、信長のお気に入りだった近習を斬った事件が原因で、一時的に信長から遠ざけられます。

その後、森部の戦いで利家は敵将の首級を挙げるなどした戦功によって、信長から「帰参(きさん)」、つまり正式に許されて家臣団へ復帰する機会を得たと言われています。森部の戦いに勝利した信長は、より多くの敵を抱えることとなりました。

愛する女性を失った信長

波に乗り始めた織田信長が悲しみに暮れるのが、1566年5月13日に起こった生駒吉乃の死去です。
通称は生駒殿と呼ばれた女性で、信長の側室。信長の嫡男・信忠や次男・信雄、徳姫の母です。

秀吉「この出来事は、信長様が心を痛めるひとつの話なのよ。信長様が最も愛した女性と言われる吉乃様。実は儂にも所縁はあるんじゃけど、この方が亡くなられたことで信長様の歯車が崩れていく」

その後、1571年5月16日に信長が長島一向一揆を攻撃、その後も比叡山焼き討ちなどを行い、よく言われている「第六天魔王」と呼ばれる素質を開花させていった、と説明する秀吉。

当時の時代背景や状況と現代では価値観が違うため、信長が残忍だったのか、それとも戦略的に天下統一を進めていたのかを判断するのは難しいところ。

いずれにしても、信長の49年の生涯の間には数多くの転機が詰まっており、そ配下として見て来た豊臣秀吉にどう映っていたのかがわかる解説でした。
(葉月智世)

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