徳川家康を無刀取りでいなし「剣豪」と呼ばれた男・柳生宗厳
CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。4月25日の放送では、徳川家康・前田利家・陣笠隊の足軽・踏舞の3名が出演し、「柳生宗厳の死去」について取り上げました。
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「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある中、話題は1606年4月19日に柳生宗厳が死去したことについて。
徳川家康「柳生宗厳は、簡単に言うと剣の達人。とても強かった人物が亡くなったという日じゃな」
柳生宗厳とは、戦国時代から江戸時代頭にかけて活躍した剣豪。別名、柳生石舟斎宗厳とも呼ばれる人物で、大和国(現在の奈良県)の柳生庄、すなわち村の棟梁の子として生まれました。
家康「この者はな、若い頃から強かったんじゃ」
強さのレベルはどれくらいだったのかというと、当時機内(現在の近畿地方)の中で最も強い若者であると言われていたそうです。当然、どこでも勝つため戦国武将たちにとっては「ぜひとも召し抱えたい」と思う人物でした。
三日三晩挑んでも勝てず
これまた同時代の剣豪である上泉信綱と出会った柳生宗厳は、三日三晩勝負を挑み続けるも一度も勝てずに終わります。それまでは自分が強いことを自覚し、実際に勝負では負け知らず。しかし、この時は何もできなかったのです。
家康「さらに上泉信綱の甥である疋田景兼(信綱の有力な弟子)にも、柳生宗厳は勝てなかった」
そこで、柳生宗厳は上泉信綱の新陰流(しんかげりゅう)に入門し、わずか2年数カ月で免許皆伝を獲得。持ち前の剣の腕をさらに磨いたのでした。
新陰流は、実戦での生死を超える「活人剣」の理念を掲げており、従来の力任せの太刀打ちに代えて、間合いや気の働きを重視する技法を確立した剣の流派です。
家康をあっさり負かした無刀取り
柳生宗厳は、後に徳川家康に仕えることになります。
家康「当時な、儂は腰を抜かした。利家殿は無刀取りを聞いたことがあるかの?」
利家「ある。伝説の剣技じゃな」
無刀取りとは、刀を持たずに刀を持った相手を制する技・思想のこと。間合い(距離)を完全に支配し、相手の動き・心理を先に崩して攻撃を出させずに制するもので、「相手が刀を使えない状況を作る」というものでした。
決して自分が丸腰で、県を持った相手が突っ込むんでくるわけではなく、相手が攻撃する前に詰ませて勝負を始める前に勝っている状態を作るという、なんとも高度な駆け引きや戦略だったようです。
利家「現世風に言えば、真剣白刃取り。すなわち剣を持っていなくても剣を持った相手に勝つとでも言えばわかるかの」
徳川家康は、剣を持って突っ込むも柳生宗厳に負けてしまいます。剣豪とはいかずとも剣の腕に覚えがあった家康にとっては、衝撃の出来事でした。
家康「これ以降、柳生家は徳川将軍家代々の剣術指南役になるわけじゃ」
要は、柳生家が歴代の徳川将軍に剣を教える役を賜ったことで家の存続と基盤を整えた人物でもあったのです。ちなみに柳生宗厳は、他の戦国武将にも兵法を指南しています。有名なところでは家康と同じく豊臣政権下で五大老を務めていた毛利輝元。
剣だけでなく兵法についても詳しく、戦国大名にとってはぜひとも手元に置きたい人物でもあった柳生宗厳。
同時代の剣豪では、多少の前後はありますが宮本武蔵・伊藤一刀斎・塚原卜伝などが挙げられます。当時の剣豪たちが一堂に会することはなかったため、一番強かった剣豪は不明ですが柳生家が今も流派として残っていることを考えると影響力の強さが伺える人物です。
(葉月智世)
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