勝てないドラゴンズ、球団史上最低の勝率だった46年前に起きていたこと
井上竜があえいでいる。球団創設90周年の記念すべきシーズン、しかし、開幕19試合を戦って4勝15敗と、まさかの借金11となっている(成績は4月20日現在)。トンネルの出口はいつ見えてくるのか。(敬称略)
甲子園でも虎に3連敗

甲子園での阪神タイガースとの3連戦は、3連勝してもおかしくない展開だった。初戦は先発の柳裕也が熱投125球、6イニングを1失点に抑えたものの、後を継いだ根尾昂が被弾した。2戦目は大野雄大が同じく6イニングを投げて、1点リードでバトンを渡すも、またしてもリリーフが打たれて逆転された。
そして4月19日の3戦目は、いきなり初回2点という先制点をプレゼントされながらも、先発の高橋宏斗(※「高」は「はしごだか」)が乱調、2度あったリードを守ることができず6回途中に降板し、自身3敗目。チームもタイガースに同一カード開幕6連敗となった。
「46年ぶり」という言葉
開幕ゲームのつまずきから、なかなか勝てないドラゴンズ。今季の成績で「46年ぶり」という言葉が度々出てくる。開幕19試合で15敗を喫したのも、1980年(昭和55年)以来、「46年ぶり」となった。この年のドラゴンズは、開幕6連敗から始まり、シーズンを通して最下位だった。45勝76敗9分、勝率3割7分2厘は、今なお球団史上最低勝率という不名誉な記録である。
シーズン通しての最下位
あの年、筆者は大学生だった。夏休みにリュック1つを背負って40日間ヨーロッパを旅した。沢木耕太郎の『深夜特急』はまだ世に出ていなかったけれど、とにかく旅に出たかった。今と違ってインターネットで情報を取ることができなかった時代、大好きなドラゴンズと長く離れることに後ろ髪を引かれていた思い出がある。日本を出る前も最下位、そして、40日が経ち、帰路の国際線機内で手にした新聞を開いた時も、変わらず最下位だったショックを今も記憶している。
球団史に残る残念なシーズン
中利夫監督の3年目だった。前の年に3位になったことから「今年は優勝争いだ」と期待していたシーズン。しかし、前年の新人王だったパームボールの藤沢公也は開幕9連敗と“2年目のジンクス”に泣き、2ケタ投手はひとりも出なかった。打線も、主軸だった宇野勝や大島康徳がけがなどで精彩を欠いた。唯一、谷沢健一が2度目の首位打者を取ったことだけが嬉しい出来事だった。シーズン後に中監督は退任した。中政権の3年間、“鉄腕”稲尾和久さんという大物が投手コーチだったが、それでもチームは浮上できなかった。
国内外も激動の年だった
この1980年は、ドラゴンズだけでなく、日本も世界も大きく揺れた年だった。時の大平正芳総理が急死して、初めての衆参同日選挙が行われた。自民党は圧勝して鈴木善幸内閣が誕生した。旧ソ連よるアフガニスタン侵攻に抗議して、夏のモスクワオリンピックは米国や日本など不参加が相次いだ。
プロ野球界でも、讀賣ジャイアンツの長嶋茂雄監督が、3位という成績にもかかわらず辞任し、王貞治選手も現役引退した。ドラゴンズでも高木守道選手(※「高」は「はしごだか」)が背番号「1」のユニホームを脱いだ。ドラゴンズの圧倒的な最下位も霞むような激動の年だった。
井上竜のベンチに言いたい!

中監督は、現役時代に首位打者にも輝いた職人肌、紳士的な監督だったが、率先してベンチを鼓舞するタイプではなかった。今の井上一樹監督は、監督1年目には「どらポジ」を、
そして2年目の今季は「ドラあげ」を、それぞれスローガンに掲げて“ポジティブ”を売りにしている。
しかし、今季、最下位予想を覆して大躍進している東京ヤクルトスワローズのベンチを垣間見るにつけ、井上竜ベンチの沈滞ムードが気になる。けが人も多く、采配もうまくいかないことが多い。それでも“元気だけはある”ことが、井上監督がめざすチームだったのではないか。
ちょうど1週間前に拙コラムで書いたことをくり返す。浮足立っているように見える采配を落ち着かせること。まず1勝目、次に2勝目、そして3勝目、そうでなければ「46年ぶり」という残念なフレーズが、これからも付いて回ることになる。歴史はくり返さなくていい。
【CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】
※中日ドラゴンズ検定1級公式認定者の筆者が“ファン目線”で執筆するドラゴンズ論説です。著書に『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』『竜の逆襲 愛しのドラゴンズ!2』(ともに、ゆいぽおと刊)『屈辱と萌芽 立浪和義の143試合』(東京ニュース通信社刊)ほか。











