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秀吉と家康の直接対決!「小牧長久手の戦い」勃発の経緯

秀吉と家康の直接対決!「小牧長久手の戦い」勃発の経緯

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。11月1日の放送では、織田信長・豊臣秀吉・陣笠隊の足軽・踊舞なつの3名が出演。「この日何の日?」コーナーで信長死後の秀吉と徳川家康の微妙な関係を取り上げました。

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家康が秀吉に臣従した日

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説します。
この日の話題は、1586年(天正14年)10月27日に徳川家康が羽柴秀吉に臣従した件になりました。

豊臣秀吉「そうじゃった。この日、徳川殿が儂に頭を下げた日にござりまする」

1582年(天正10年)6月21日早朝に起こった本能寺の変後、信長の重臣たちによる後継者争いが起こります。
信長の跡取りで嫡男だった信忠も本能寺の変で死んだため、後を継ぐ人物が誰になるのか揉めたのです。

信長には、信忠の他に次男・織田信雄(のぶかつ)、三男・織田信孝(のぶたか)がいました。それぞれが「我こそは」と主張しますが、そこに織田家の重臣だった柴田勝家・秀吉などが絡み、複雑な様相を呈します。

秀吉の勢力拡大に対抗できたのは家康

まず、信長が本能寺で討たれた後に起こったのが、秀吉と明智光秀の争い「山崎の戦い」でした。
光秀が討たれると、1582年7月には尾張国の清須城で信長の後継を決める重臣会議、いわゆる「清洲会議」が行われます。

後継者は、信長の孫(信忠の子)でわずか3歳の三法師に決まりますが、後見を務めたのは秀吉でした。

この決定に不満を抱いた三男・信孝は柴田勝家と結んで「反秀吉連合」を形成。そして勃発したのが「賤ヶ岳の戦い」でした。
敗れた勝家は自害、残った秀吉が勢力を強めるかと思いきや、その勢いを止めたのは徳川家康の存在でした。

秀吉「よく絵巻などで描かれる徳川殿が儂に『陣羽織が欲しい』と言ったのは理由がござりまして。徳川殿は儂に忠誠を誓う言葉としてこのセリフを言うたのでございまする」

家康のよるこの言葉は、秀吉が戦の場に立つのはこれで終わり、今後は家康自身が陣羽織を着て代わって戦うという意味だったそうです。

実は秀吉vs家康で戦をしたことも

歴史では、織田信長と徳川家康は若い頃に「清州同盟」を結んだとされているものの、信長曰く「天正年間に家康が自分の家臣となっていた」という認識。
どうもその後、江戸幕府を開いた徳川家により、歴史が勝者の都合のいいように変えられたのでは?と言います。

信長「要は、儂の家臣団の中で実力ある者が後を継ぐんじゃから、秀吉が継いだということは、家康はわざわざ頭を下げんでも、元々おぬし(秀吉)の家臣になる必要があった。何をそんなにいまさら。もしかして仲が悪かったのか?」

信長の指摘通り、両者は決して仲が良かったわけではなかったようです。

柴田勝家亡き後、次は秀吉と信長の次男・信雄が対立します。その信雄に味方したのが家康でした。
秀吉vs家康・信雄連合が激突したのが、1584年3月~11月頃まで続いた「小牧長久手の戦い」です。

この戦で家康は戦略的に引き上げ、戦いは実質的な引き分けとなりましたが、結果的に政治的主導権は秀吉が握ることになりました。
そして、冒頭の「1586年10月27日に家康が秀吉に臣従する」という出来事につながったのでした。

全ては信長の死後に起こった出来事ですが、急に主君を失った家臣たちがどうなるのかをまざまざと見せつけ、天下統一への駆け引きがあったことが伺える結末に、信長も呆れながら「仲良くせい!」と締めくくりました。
(葉月智世)
 

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