「スポーツもういっちょスペシャル」、スポーツジャーナリスト生島淳さんに話を聞く。

『CBCラジオ #プラス!』は、毎週火曜日に旬のスポーツ情報を届けています。5月6日放送では「スポーツもういっちょスペシャル」と題して、生島淳さんをゲストに迎え話を伺いました。生島さんは57歳、宮城県気仙沼市出身のスポーツジャーナリスト。オリンピック、ラグビーワールドカップ、共に7回の取材経験があり、現在はプロ野球、ラグビー、駅伝など多岐にわたってスポーツ情報を発信しています。光山雄一朗アナウンサーと山本衿奈が生島さんにインタビューします。
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この記事をradiko(ラジコ)で聴く小学生のときから
まず、生島さんがスポーツに興味を持ったきっかけについて。
生島「こどもの頃、家の中にスポーツを見る習慣があって、必ず巨人戦はナイターがありました。
小学校1年、2年のとき、父親に仙台宮城球場に中日と大洋、ロッテと近鉄の試合に連れて行ってもらった思い出もあります。小2の冬に父親が亡くなったので、それはすごく残っています。
野球は見ていたし、冬になるとラグビーもテレビで見ていました。六大学野球も大好きで、その時から早稲田ファンで、絶対早稲田に行こうと思っていました。
家は食堂をやっていました。夏休みになると、どこにも連れて行かれることがなく、僕はずっと甲子園を見ていました。6年間で見逃した試合がたぶん10試合もないです。
僕は全国の小学生はみんなそうしていると思っていました。我が家の常識は外では非常識でした。
小学校5年の時にフジテレビ系列で大リーグ中継が週2回入った。これも大きかったです。
昔と今、やっていることは全然変わっていません。そこに書く仕事が入ってきたくらいです。マインド的には小学生のときと変わっていません」
ジャーナリストになるまで
こどもの頃に取り組んでした部活動について語る生島さん。
生島「小学校は野球で、中学校は卓球でした。光山さんの時代と違い(注:光山アナも卓球部出身)、ラケットの持ち方が古かった。高校は新聞部に入っていました。あとほぼほぼ毎日ソフトボールをしていました。文化部対抗でソフトボール大会をしたりしていました。
新聞部ではスポーツを担当していました。それは今の仕事につながっているかもしれません」
社会人になって広告会社に勤務した生島さんですが…
生島「9年間勤めてましたが、あまりにダメ社員で、なんか違うなと思っていて、勤めながら書き始めたのがこの仕事のきっかけです。文藝春秋の『Number』に持ち込みにいって、そこで1ページから始まって、1992年デビューです。
『Number』は中学1年のとき発売された雑誌ですごく思い入れがありました。最初に持っていった記事はNBAバスケットです。(マイケル・)ジョーダンの時代です。95年には野茂(英雄投手)が大リーグに行った。それから30年です。
1999年にフリーになりました。会社でぷらぷらしてられないなと思ったからです。嫁さんにそれを言ったとき、『売れてもらわないと困るよ』と言われ、それは大切にしています」
1日のスケジュール
生島「30年くらい書いてきて、いちばん生産量が高まるのは午前中です。逆にいうと、午前中しか書かないです。午後はラジオを聞きながら料理をしたり、昼寝をしたり。夜は最近はナイトゲームを観に神宮に行くか、芝居とか演芸関係に行きます」
1年間で何本くらいの記事を書いているのでしょうか?
生島「それはわからない、季節労働者だからね。今は割と暇です(笑)。
箱根駅伝関係の記事がすごく多いのと、ラグビーワールドカップに合わせて、冬が多いですね。仕事は波がある、売れてないとき焦らないというのは辞めたときすごくわかりました。
焦らず、マイペースで、大事なのはディシプリン(規律)、フィジカル(体力)なので、深酒しないとか、この年齢になると大切です」
好きなスポーツは?
取材時に大事にしていることを尋ねた光山。
生島「インタビューのときは構成を考えていかないといけない。原稿は質問の順番にそのまま原稿になることが多いです。だからある程度しっかり調べて構成を考えていくのが大事です」
さらに生島さんが最も好きなスポーツについて尋ねると…
生島「これも季節によります。僕は(東京ヤクルト)スワローズを見ることが多いですが、今は少し淋しいですね(笑)。冬は陸上、今からはラグビーも佳境に入ります。季節によります。
自分ではカーリングのチームを持っていました。そのときはいろいろ作戦とかを考えていましたね。当時は理系のメンバーがたくさんいて面白かったです」
(みず)
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