マジックインキの魔法「何にでも書けて消えない」ニッポンでの誕生秘話
物心ついた頃、クエスチョン「?」マークのラベルが付いた太く短いペンが身近にあった。ボールペンやサインペンと違って、そのボディーはガラス製だった。さらにキャップはねじ式になっていて回さないと開けられなかった。ペンの先も太く四角い形、インクの匂いも強かった。「書くと消せないから気をつけて」と親から注意された。それが日本製の油性マーカー「マジックインキ」との出会いだった。
マーカーペンは「フェルトペン」とも呼ばれ、もともと英国の貴族が使っていた。19世紀後半になって、イギリスの一般社会にも広がっていった。ペン先となるフェルトは、羊など動物の毛を圧縮して作った繊維、それを細くしてインクを沁み込ませて、書く道具とした。その後、米国ではそれを進化させた「マジックマーカー」という油性のフェルトペンが誕生した。
そんなペンに魅了された日本人がいた。1898年(明治31年)に大阪で生まれた寺西長一(てらにし・ちょういち)さん、船場の商店でインクの製造を学び、18歳だった1916年(大正5年)に「寺西化学工業所」を創業した。インク、クレヨン、そして絵の具などを製造していたが、終戦後、米国製の“あるペン”と出会うことになる。それは、戦後復興のため産業視察団に参加した、事務用品会社「内田洋行」の社長が米国から持ち帰ったものだった。何にでも書けて、書いた瞬間すぐに乾き、水でも手でこすっても消えない不思議なペン、それが米スピードライ社の「マジックマーカー」だった。
インク一筋の仕事をしてきた寺西さんは、その魅力に感激して決意した。「日本でもマーカーペンを作ろう。必ず夢のある筆記具になるはずだ」。手元にある米国製のペンの構造を研究しようとしたが、そこにハードルが立ちはだかった。当時は長い船旅だったため、せっかくのペンはキャップや容器も壊れ、フェルトのペン先もカラカラに乾いてしまっていた。どんな仕組みかも分からない。しかし、寺西さんはバラバラになった残骸と「何にでも書けて消えない」という情報だけを頼りに、自らの開発をスタートした。
まず得意のインクからだった。油性の溶剤に溶ける染料は何か?当時は水性のものがほとんどだった。寺西さんは、接着性の強い「樹脂」を思いつき、水に溶ける染料と混ぜ合わせた。それによって油にも溶ける染料ができた。次はペン先、何かを書くためには最も大切な部分だった。ペン先には、帽子屋に大量の山高帽を注文して、その帽子のフェルトを使うことにした。柔らかすぎたため、ここでも樹脂を使うことで、適度な硬さをもたせることに成功した。
最後は、油性のインクに耐える容器だった。プラスチックは希少なもので、目をつけたのは「ガラス容器」だった。インクの蒸発を防ぐため、キャップには断熱効果のあるセルローズという素材を使用し、密閉性を増すために、ねじ回し式にした。
こうして日本で開発した油性マーカーが誕生、1953年(昭和28年)4月に発売された。どんなものにもよく書けて消えない“魔法のインキ”という思いを込めて、このペンは「マジックインキ」と名づけられた。黒、赤、そして藍色の3色だった。しかし、この魔法のペンも最初ほとんど売れなかった。値段は1本80円、当時はコーヒー1杯が50円の時代だったため、それは結構な高級品だった。さらに、鉛筆文化の日本には「キャップを閉める」習慣がなかったため、ついキャップを閉め忘れる人も多く、「すぐに乾いてしまい何も書けない」という苦情も多かった。
しかし、日本の高度成長期は「マジックインキ」に追い風を吹かせた。物流が盛んになると、段ボール箱などに梱包して物を運ぶようになり、箱やビニールに簡単に文字を書くことができて消えにくい「マジックインキ」は、欠かすことができないペンになっていった。昭和30年代には爆発的な売れ行きとなって、マーカーペン全体のシェア60%を占める人気商品になった。
それと共に、サインペン型や極太サイズなど用途に合わせて種類も豊富に、さらに色もどんどんカラフルになっていった。「マジックインキ」はマーカーペンのトップランナーとして走り続けている。
西洋生まれのペンをヒントに、何にでも書ける“魔法のペン”を生み出した、まさにニッポンのマジック。「マジックインキはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“決して消えない油性マーカー”で書き込まれている。
※「マジック」「マジックインキ」は株式会社内田洋行の登録商標です。
【東西南北論説風(399) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。