「軍手」の大量生産を実現した発明人生“紀州のエジソン”母への思いと開発魂

「軍手」の大量生産を実現した発明人生“紀州のエジソン”母への思いと開発魂

工場や作業現場だけでなく、一般家庭の日曜大工やガーデニングでも活躍する手袋「軍手」。江戸時代に生まれたと伝えられる、この手袋が“作業用”として大量生産されるまでには、軍手作りにかけた熱きアイデア湧出と開発の日々があった。

手袋の歴史は古代ギリシア時代にさかのぼる。紀元前では“手を包む袋”、主に防寒のためだったと伝えられる。そんな手袋は、16世紀の室町時代に鉄砲などと共にヨーロッパから日本にやって来た。江戸時代に入ると、下級武士が内職仕事として手袋を編んだ。丈夫に編まれたこの手袋は、防寒目的と共に、素手で持つと錆びやすい鉄砲を扱う時など、主に戦場で使われるようになった。「軍用手袋」やがて「軍手」と呼ばれるようになった。明治維新を迎え、手袋を編める機械が輸入されたが、軍手は、指の部分や手のひらの部分など別々に編んだものを手作業によって縫い合わせていかなければならない、手間ひまがかかる品物だった。

「創業者・島正博さん」提供:株式会社島精機製作所

そんな「軍手」に出会った少年が、紀伊半島にいた。島正博さん、太平洋戦争を前にした1937年(昭和12年)に和歌山県に生まれた。父親は戦地で亡くなり、戦後、島少年は中学校に通いながら、自宅隣の機械工場でアルバイトし、母親は家での内職として軍手を作って、暮らしを支えていた。しかし軍手は別々に編んだ部分をいちいち繋ぎ合わせるため、一日に沢山作ることはできない、その生産性は悪かった。

「二重環かがりミシン」提供:株式会社島精機製作所

「この作業を簡単にできないだろうか。そうすればお母さんの負担も少なくなる」
母の苦労を間近で見ていた島さんは軍手の合体を簡単にするため、ミシンの開発を始めた。
機械いじりは大好きだった。それまで1本だったミシンの針を上下2本に並べる構造にした。それによって、別々に編んだ軍手のパーツを、あっという間に縫い合わせることが可能になった。2本の針を持つ「二重環かがりミシン」の誕生だった。この時、島さんは16歳の高校生。母を思う心に、アイデアという名の愛情が加わったことによって、軍手の歴史に大きな一歩が刻まれた。

島さんの「軍手」へのアイデアはさらに広がっていった。当時の軍手は木綿糸だけで編むため、手にはめたり外したり、着脱はスムーズではなかった。機械工場で使用されていたが、作業中に外れにくいよう手首の部分が細く編まれていたため、逆に動いている機械に軍手ごと手が巻き込まれて、大けがをする事故も起きていた。そこで島さんが思いついたのが、木綿糸と共にゴム糸を使うことだった。ミシンに続いて、今度は新しい「軍手編み機」を発明し、手首の部分にゴム糸を編み込むことに成功する。これによって軍手は“伸縮性”を持った。1955年(昭和30年)に島さんが発明した「ゴム入り安全手袋」は、全国の工場や作業現場に広がっていった。安全で使いやすい新たな軍手の登場によって、「軍手」は“作業用手袋”として力強く歩み出したのだった。

「世界初の全自動手袋編機」提供:株式会社島精機製作所

島さんは、24歳だった1961年(昭和36年)に自らの会社を設立した。その3年後には、1本の糸から全自動で「軍手」を編み上げる機械を開発し、軍手は大量生産できる身近な作業用品になった。いつしか島さんは「紀州のエジソン」と呼ばれるようになった。島さんの会社は現在の「株式会社島精機製作所」である。島精機製作所は、軍手や靴下など編み機のトップメーカーとして、斬新なアイデアを生み出し続けている。当時は10代の少年だった島さんがこだわった「軍手」は、今や工場や作業現場だけでなく、大掃除、日曜大工、ガーデニング、そして屋外バーベキューの食卓など、一般の幅広い舞台で活躍している。

「最新の手袋編機」提供:株式会社島精機製作所

ヨーロッパからやって来た手袋を、軍手という使いやすい“作業用手袋”に仕立て上げたアイデアと開発力。「軍手はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“しっかりと編み込まれて”いる。


【東西南北論説風(335)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。

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