日本製「運動靴」の歩み、スポーツ選手を支える開発魂は大谷翔平へも届いた!
スポーツを足元で支えるもの、それは「運動靴(スポーツシューズ)」である。19世紀の米国で、柔軟性のある強いゴム「硬化ゴム」が開発されて、耐久性の高い“丈夫な靴底”を作ることが可能になった。20世紀に入ると、それは「スニーカー」と名づけられた靴へと成長する。「スニーク(sneak)」は「忍び寄る」という意味も持つ。まさに靴底に重きを置いたネーミングであり、やがてスニーカーは、運動用の靴(スポーツシューズ)としても世界に広がっていった。
そんなスポーツシューズを日本人向けに作ろうと考えた人がいた。1918年(大正7年)に鳥取県で生まれた鬼塚喜八郎(おにつか・きはちろう)さん。鬼塚さんは戦地から戻ると、1949年(昭和24年)に兵庫県神戸市で「鬼塚株式会社」を創業、小中学校に運動用の靴を納める仕事を始めた。鬼塚さんは運動靴を扱いながら、ますますスポーツに魅了されていった。そしてついに、実際に自分でもスポーツシューズを作ろうと決意した。
最初に手がけたのは、バスケットボールシューズだった。バスケットボールというスポーツは、ボールを奪い合いながら「ダッシュ」「ターン」「ストップ」と足が激しい動きをくり返す競技である。それだけに、シューズにかかる負担、そしてシューズが担う役割は大きかった。このため、スポーツシューズの世界では“最もむずかしい靴”と言われていた。しかし鬼塚さんは果敢に挑戦した。「最初に高いハードルを越えれば、その後のハードルもどんどん越えられるだろう」という、鬼塚さんの人生哲学がそこにあった。
鬼塚さんは、バスケットボール選手の足の動きを観察するために、学校の体育館に通い続けた。最も大切なことは靴が丈夫であること、そして激しいプレーの中で足が滑らないことだった。そのためには靴底を工夫する必要があった。
1951年(昭和26年)夏、夕食の食卓でキュウリの酢の物が出てきた時に、鬼塚さんにアイデアが閃いた。「これだ!」酢の物に入っていたのは蛸(たこ)の足だった。靴底全体に蛸の吸盤のような窪みを入れることによって吸着性を強くして、「ダッシュ」「ターン」「ストップ」という激しい動きに耐えられるようにした。鬼塚さんが開発したシューズを履いた地元の高校バスケットボール部は、全国大会で活躍した。こうしたこともきっかけとなって、鬼塚さんの作るシューズは注目を集めるようになっていく。
さらに鬼塚さんが手がけたのはマラソンシューズだった。日本の運動会では、伝統的に地下足袋(たび)をベースにした運動足袋が使われていた。鬼塚さんはバスケットボールシューズ作りで得た知識から、靴底に工夫を凝らす。衝撃を和らげるラバーを貼ると共に、靴全体に綿の3倍の強さを持つビニロン材を使用した。踵(かかと)にはスポンジを入れて、長い距離を走っても足が疲れないようにした。しかし、どのシューズもそうだったが、長時間走ると、どうしても足にまめができてしまう。鬼塚さんは、まめができる原因は、足と地面との衝撃による摩擦熱だと気づく。靴の爪先やサイド部分に穴を開けることで、熱を外に出すことに成功した。
鬼塚さんが作ったマラソンシューズ「マジックランナー」は、君原健二選手が着用して1968年メキシコオリンピックで銀メダル、さらにその後、高橋尚子選手や野口みずき選手ら数多くのランナーにも選ばれて、数々の国際大会の舞台で活躍した。
スポーツシューズの歩みは続く。ナイロン材を使った登山靴、6人制のポジション交代に対応したバレーボールシューズ、スキージャンプ用のシューズなど、スポーツ界の足元を席巻していった。鬼塚さんの会社は、1977年(昭和52年)に、他の2社と合併して、総合スポーツ用品のメーカーになった。その名は「アシックス(ASICS)」。靴作りを始めるきっかけとなった帝政ローマ時代の言葉「健全なる身体には健全なる精神が宿る(Anima Sana in Corpore Sano)」、この頭文字「A・S・I・C・S」から会社の名前を決めた。他のメーカーも次々と新たなシューズの開発に乗り出している中、米メジャーリーグで大活躍する大谷翔平選手が着用しているのもアシックス製のシューズである。
スポーツへの熱き思いが、世界のアスリートたちを足元からしっかりと支えている。「運動靴はじめて物語」のページには、日本の生活文化の歩み、その確かな1ページが、“スポーツにかける汗と輝きと共に”刻まれている。
【東西南北論説風(381) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。