スリッパは日本で生まれ、そして明治初期の“日本外交”を救った
「泰平の眠りを覚ます」と狂歌でも謳われた江戸時代末期の黒船の来航。この出来事がなければ、今や生活必需品である「スリッパ」は誕生しなかったかもしれない。日本生まれのスリッパ、実は当時の外交に一役買っていた。
嘉永6年(1853年)、米国ペリー艦隊の黒船が浦賀沖にやって来て、徳川幕府に対して鎖国をやめて、開国するよう迫った。日本国内は大騒ぎ、徳川幕府はやがて日米和親条約を結んで国を開いた。次々と西洋からの人々が日本にやって来るようになった中、そこに大きな障害が持ち上がった。当時は今のようなホテルなどはなく、西洋人たちは旅籠(はたご)や寺などに宿泊したのだが、当然のように西洋人たちは靴を脱がずに、土足のまま部屋に上がった。靴によって部屋は汚れるは、畳は傷つくは、文化と習慣の違いはいかんともしがたく、外交問題にまで発展しかねない事態。「開国」に暗雲が立ち込めた。
そこに登場したのが、明治になって「東京」と改名された江戸の町で仕立て屋を営んでいた徳野利三郎さん。「何とかならないか」と相談を受けて、作ったものが「靴の上から履くことができる履物」だった。1868年、明治元年のことである。このいわゆるオーバーシューズが「スリッパ」だったと伝えられている。このスリッパ第1号、今は保存されていないが、イグサで編んだ畳表を重ねて和紙で補強、形は草履のような小判型で、かかと部分は覆いもなく、靴をそのまま差し込んで履いたという。このため「上靴(うわぐつ)」と呼ばれていたそうだ。後になって「足を滑らせて履く」という意味から「滑る=slip」、そこから「スリッパー(slipper)」と名づけられたが、この発明によって、開国直後の外交摩擦は回避されたのだった。
来日した西洋人向けに作られたスリッパだが、次第に、日本人の暮らしにも受け入れられていった。明治時代に西洋からの文化が次々と入ってくる中、洋館に住んで西洋的な暮らしをする日本人も増え、畳ではない床の間で、スリッパを履く習慣が根づいていった。それでも、日本の人たちは土足のままスリッパを履くのではなく、靴は玄関で脱いで、素足にスリッパを履いた。今日に通じる、日本独特のスリッパ文化が誕生した。もともと草履や下駄に親しんでいたため、いわゆる「引っかけて履く」スリッパは日本に溶け込みやすかったのだ。
スリッパは、第二次大戦後にますます暮らしの中で活躍の場を得ていく。台所がダイニングになったり、来客用に「洋間」ができたり、トイレがタイル貼りになったり、家庭の様々な場面で重宝されるようになった。航空機の機内サービスとしても、スリッパが登場した。特に長時間の国際線フライトでは、靴を脱いで足を休めるために使われた。冷え性対策として、足を温めるスリッパも生まれた。また「防災グッズ」としての評価もある。震災などで割れたガラスが散乱するなどした場合、足を傷つけないためのスリッパを身近に用意する家庭も増えている。
江戸から明治にかけての時代、異なった文化を持つ西洋人たちを拒否したり怒らせたりするのではなく、“包み込む”ことで摩擦を回避したスリッパ。今日の日本外交にも通用しそうな教訓がそこにある。懐の深い画期的な発明だった。
最後にひと言・・・「スリッパは文化である」。
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿のコレ、日本生まれです」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして紹介します。
【東西南北論説風(225) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】