暗渠道から歴史を紐解く!京都を支え街が繁栄した“琵琶湖疏水”とは
ミキの昴生と亜生がMCを務める、全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』。今回は、川が流れていた場所の上にできた“暗渠道(あんきょみち)”をこよなく愛する道マニア歴15年の髙山英男さんが、“琵琶湖疏水”から京都が繁栄した歴史の紐を解きます。
琵琶湖の水を京都へ 豊かな水が街を発展させた“琵琶湖疏水”
かつて平安京として日本の首都に定められ、政治・文化の中心地として栄えた京都。その繁栄の理由の1つと言われるのが、大きな川の存在です。鴨川や桂川に挟まれた平安京は水路の要衝となり、多くの人や物資が出入りすることで商業・工業の都市として発展したと言われています。
(道マニア・髙山英男さん)
「京都といえば、今や日本を代表する観光地ですが、昔からいろいろ問題を抱えていた。特に、東京に首都が移った時、人口が3分の2に減少したり、数々の産業が衰退したり。水不足にも悩まされていた。そんな弱り切ってしまった京都の一発大逆転の施策が、“琵琶湖疏水(そすい)”」
髙山さんは旅のお供である一般男性と一緒に、京都を劇的に変えたと言われる“琵琶湖疏水”の暗渠道を巡りながら、街が繁栄した歴史の紐を解いていきます。
滋賀県大津市と京都を繋ぐ人工の水路“琵琶湖疏水”は明治14年、琵琶湖から水を引き入れるため北垣国道(きたがきくにみち)京都府知事によって計画されました。工事には京都府予算2年分、現在価値で約1兆円を費やし、作業員約400万人、約5年に及ぶ難工事の末、明治23年に完成。
第1疏水、第2疏水、疏水分線などから成る“琵琶湖疏水”は、季節や年によって水量が不安定だった京都に、琵琶湖から安定した水の供給に成功。今も1日約200万トンもの水が運ばれています。
そんな“琵琶湖疏水”を知る上で重要なポイントがあるという、京都市左京区の「南禅寺(なんぜんじ)」へ。現れたのは、明治21年竣工の水路橋「水路閣」。「南禅寺」の境内には美しいアーチが目を引く「水路閣」があり、上部の水路を流れていく水を見ることができます。
賀茂川の下を流れていた疏水分線 「白川疏水通り」の暗渠道
“琵琶湖疏水”の誕生により最も人々の暮らしを変えたのが、当時の最先端技術であった水力発電。また、工場の機械化が進み、日本初の路面電車も運用されるなど京都の街を大きく発展させました。
さらに、電力を利用してケーブルカーのように走らせる鉄道「インクライン」も誕生。高低差のある斜面を台車に乗って移動できる画期的な輸送手段で、人々の生活文化の向上に大いに貢献したと言われています。
(道マニア・髙山英男さん)
「琵琶湖の水が水路閣の上を流れていきますが、一部暗渠になっている道があるので、その暗渠道をご案内したい」
2人が訪れたのは、京都御所の北に位置する「白川疏水通り」。西へ進むと、水路が開渠から暗渠へと変わります。さらに暗渠道を辿り、北大路通(きたおおじどおり)を横断。賀茂川(かもがわ)方面へ向かうと、水門が見えてきます。
(道マニア・髙山英男さん)
「サイホン式といって、賀茂川の下をくぐり抜けて向こう側に行く水路になっている。姿は見えないけど、生き続けている証拠」
琵琶湖疏水から通じる「小川」の暗渠道
その後も2人は暗渠道を辿り、堀川紫明(ほりかわしめい)交差点に到着。
(道マニア・髙山英男さん)
「疏水は一旦ここで終わりですが、この疏水が旧・堀川と旧・小川(こかわ)に接続していた。次は旧・小川の跡を通ってみたい」
小川は地下に移し替えられず、今では一部を除きほぼ埋め立てられているとのこと。2人が小川通をたどっていると、扇町児童公園に橋の土台の一部を発見!高山さんは、「この上に欄干があったと考えられる」と言います。
また、小川通と寺之内通が交わる場所には、かつて小川に架かっていた「百々橋(どどばし)」の礎石が今も置かれています。
その後、小川から堀川(ほりかわ)へ辿りつつ、京都駅近くの七条堀川交差点へ。線路で一旦途切れるものの、小川の暗渠道は西高瀬川までつながっているそうです。
7月9日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より