“ポパイ”と呼ばれた男・元ドラゴンズ井上弘昭さん逝く、その勝負強さの思い出
そのがっしりとした体格から「ポパイ」というニックネームだった。中日ドラゴンズの歴史に強打者として刻まれている井上弘昭さんの訃報が届いた。81歳だった。
3番打者と言えば井上選手
球団創設90周年を迎えるドラゴンズの歴史には、数多の“3番打者”が名を連ねてきた。2025年(令和7年)シーズンならば、福岡ソフトバンクホークスから移籍して2年目に外野のレギュラーとして走攻守に活躍した、上林誠知選手だろう。
井上さんも、歴代の“3番打者”の中、渋いながらも輝く光を放っている。何と言っても、讀賣ジャイアンツの10連覇を阻止して、ドラゴンズが20年ぶりにリーグ優勝を果たした1974年(昭和49年)シーズン、「レフト・3番」として大活躍したからだ。
優勝試合でもホームラン
井上さんは、1967年(昭和42年)にドラフト1位で、広島東洋カープに入団した。
右打ち右投げの外野手。しかし、なかなか目立った活躍はできず、トレードによって1973年(昭和48年)から名古屋の地で、ドラゴンズのユニホームを着た。背番号は「6」だった。
その2年目、井上さんは、プロ入りして初めて規定打席に達し、打率.290、ホームラン18本と活躍した。リーグ優勝を決めた試合でも、ホームランを打った。板東英二さんが歌った応援歌『燃えよドラゴンズ!』での「3番井上タイムリー」というフレーズは、竜党の間ではすっかりおなじみである。
死球の数は歴代最多
打席では気迫にあふれていた。スラっと立ち、少しだけ背を丸めたスタイルで、投手をにらみつけた。立ち向かっていくだけに、デッドボールも多かった。ドラゴンズに在籍した8年間で、死球の数は83、球団では歴代最多である。井上さんとデッドボール、忘れられないのはリーグ優勝した翌年、1975年(昭和50年)のことだ。
首位打者を逃した死球
井上さんは、かつての同僚である広島カープの山本浩二さんと、激しい首位打者争いを続けていた。連覇をめざすチームも、カープと優勝争いとしていた。最終戦の最終打席で、井上さんがヒットを打てば、逆転で首位打者を獲得する場面。内角へのボールを「デッドボール」と判定される。死球では、打率で山本選手を追い越せない。
「当たっていない!」と懸命に主張する井上さんの姿は、今も鮮明に思い出すことができる。結局、主張は認められずに「デッドボール」で1塁に向かう井上さんの背中からは、悔しさと怒りがほとばしっていた。わずか1厘差の打率.318で、首位打者を逃した。
チームもカープに優勝をさらわれた。
勝負強い“ポパイ”の魅力

とにかく勝負強いバッターだった。ここぞという場面では、必ず打ってくれた印象がある。
頼りになる打者だった。だからこそ『燃えよドラゴンズ!』の歌詞でも「3番井上タイムリー」と紹介されたように“タイムリーを打てる3番打者”だった。
その後は、日本ハムファイターズ(当時)など2球団のユニホームを着た。1992年(平成4年)、かつてのリーグ優勝の同僚、高木守道監督(高ははしごだか)の招きで、打撃コーチでドラゴンズに復帰した時は嬉しかった。“ポパイ”が名古屋の地に帰って来た!そんな思いだった。
これからもドラゴンズには、多くの“3番打者”が登場するだろう。しかし、“ポパイ井上”が竜の歴史に刻んだ、死球の数と勝負強さは、これからも語り継がれていく。心からご冥福をお祈りいたします。
【CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】
※中日ドラゴンズ検定1級公式認定者の筆者が“ファン目線”で執筆するドラゴンズ論説です。著書に『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』『竜の逆襲 愛しのドラゴンズ!2』(ともに、ゆいぽおと刊)『屈辱と萌芽 立浪和義の143試合』(東京ニュース通信社刊)ほか。










