華麗なる「ネクタイ」の歴史~日本に初めて持ち込んだのは幕末のジョン万次郎

華麗なる「ネクタイ」の歴史~日本に初めて持ち込んだのは幕末のジョン万次郎

ビジネスの場面をはじめ、男女問わず貴重なアイテムとして日本のファッション史にも大きな足跡を残してきた「ネクタイ」。その波乱万丈な歩みをたどる。

ネクタイの起源は古代ローマ時代、兵士たちは「フォーカル」と呼ばれる、防寒とお守り、2つの役割を持った布を首に巻いて戦地へ向かったと伝えられる。男たちの出征に際し、妻や恋人たちは無事を願って布を贈った。
時は流れ、17世紀フランスのブルボン王朝。「太陽王」と呼ばれたルイ14世は、自らが建造させたヴェルサイユ宮殿で、警護に当たる兵士が首に布を巻いている姿を見た。「カッコいい!おしゃれだ!」。早速、御用達の職人に命じて同じような布を作らせて首に巻いた。宮殿にやって来る貴族や外国からの客たちは、フランス国王が首に巻いた布を見て、その真似をするようになった。こうして国王が首に巻いた布はヨーロッパ全体に広がっていく。ルイ14世が着目した兵士は、バルカン半島の国クロアチア出身だった。そのためこの布は「cravat(クラバット)」と呼ばれるようになった。「cravat」とはクロアチア人を意味するフランス語だった。

ドーバー海峡を渡り「cravat」は英国にも伝わった。“紳士の国”イギリスで、結び目だけを独立させた蝶ネクタイ、布全体を太くしたアスコットタイと次々と進化していく。19世紀末には現在のネクタイとほぼ同じ細長い形の布が登場、馬車の御者が手綱さばきをする時にも邪魔にならないよう結び方も工夫され、「フォア・イン・ハンド」(四頭立て)と名づけられた。その後、アメリカにも持ち込まれ、首を締めるという意味「ネクタイ=neck tie」と呼ばれるようになった。

その「ネクタイ」が日本にやって来た。持ち込んだのはジョン万次郎、後に幕府の通訳としても活躍する。土佐藩(現在の高知県)生まれの万次郎は、14歳の時に漁に出て遭難し、通りがかったアメリカの船に助けられて、そのまま太平洋を渡る。当時の日本は鎖国だったため、すぐに日本に帰ることはかなわなかった。10年の歳月が流れ、1851年(嘉永4年)に万次郎は帰国した。降り立ったのは琉球(現在の沖縄県)、薩摩藩などの取り調べを受けたが、その際に長崎奉行所がまとめた万次郎の所持品目録に書かれたのが「襟飾3個」。これは「ネクタイ3本」を意味していた。「ネクタイが日本に初めてやって来た」最も古い証しとなっている。この時の「ネクタイ」は襟のところで蝶結びをする現在の「蝶ネクタイ」的なものだったと言う。

CBCテレビ:画像『写真AC』より「蝶ネクタイ」

日本は明治維新を迎えて、文明開化の道を歩み始めた。着物などの和服から洋服へと、服装も大きく変わっていく中で、政府の要人、軍人、そして駅や郵便局など公的な機関で働く人たちは洋服を着るようになったが、そこに「ネクタイ」が加わった。国産のネクタイも登場した。1884年(明治17年)東京の帽子商である小山梅吉さんが、帽子の布を使って作った蝶ネクタイが、国産のネクタイ第1号だと言われる。大正時代に入ると、細長いネクタイが広がり始めていった。

昭和の時代に入って「ネクタイ」はサラリーマンの必需品となり、様々な種類、季節に応じた柄まで登場するなどスーツには欠かせないものとなった。しかし、そんな「ネクタイ」に“試練”とも言える時が訪れた。「クールビズ」だった。環境問題がクローズアップされ、その省エネルギー対策の一環として、真夏を中心に1年の半分はネクタイをしない“ノーネクタイ”が主流となった。ネクタイの売れ行きは一気に落ち込んだ。
「ネクタイ」の歴史にとっては思いもかけないステージが待っていたことになる。

太平洋の荒波を越えて、ジョン万次郎と共に日本にやって来た「ネクタイ」に、クールビズという時代の波が押し寄せた。「ネクタイはじめて物語」のページには、新たな荒波の向こうに、次はどんな日本の文化の歩みが刻まれるのだろうか。

          
【東西南北論説風(297)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。

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