全国各地で勃発した「もうひとつの関ヶ原の戦い」
CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。9月19日の放送には徳川家康・前田慶次・陣笠隊の足軽・なつの3名が出演し「関ヶ原の戦い」を話題にしました。
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「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1600年9月15日の関ヶ原の戦いについて。
徳川家康「儂が東軍の総大将として大戦、日本の歴史上で一番大きな戦と呼ばれておる。それに勝ったということじゃな」
この戦いは、日本の歴史の中でもっとも有名と言われています。
家康「ここで大切なことはな、4つ大事なことを覚えておけばいいだけなんじゃ。まず1600年に関ヶ原で起こったということ。あとは9月15日であったこと、東西合わせて15万人、そして半日で終わったこと。この4つさえ押さえておけば、戦の概要はわかるというものじゃ」
これだけの大人数の武将が集結して戦った例は日本の歴史上でもそうあることではない上に、決着もかなり早かったなど、異例ずくめの戦で会ったことは間違いないようです。
豊臣家内部の権力争い
「天下分け目の戦」とも言われる関ケ原の戦いは、そもそもなぜ起こったのでしょうか?
家康「戦の原因がわからぬというリスナーもおるだろうから説明いたそう。秀吉殿が関ヶ原の戦いの2年前に亡くなられ、跡取りの秀頼殿はまだ幼く天下を治めるのは誰じゃ、という時代だったんじゃ。
現世風に言うと秀吉殿が社長だったとすると、儂は副社長だった。社長がいなくなれば副社長が一番権力を持っておるものじゃけど、その儂についていきたい者と、そうでない者がいたわけじゃ」
もうひとつ、誤解されやすいのがこの戦の構図。
東軍の徳川家と西軍の豊臣家という構図を思い浮かべがちですが、実際のところは豊臣家内部での争いでした。
家康「世の中の徳川派(東軍)と反徳川派(西軍)の戦いだったんじゃ」
この戦いの時点では、家康も「豊臣家の家臣(五大老のうちのひとり)」という立場であったため、あくまでも豊臣家内部の勢力争いだったと言えます。
全国で戦が勃発
関ヶ原の戦いの頃、前田慶次は上杉景勝(上杉謙信の後を継いだ養子)に仕えていました。
前田慶次「慶長出羽合戦、東北でもうひとつの関ヶ原があっての、儂もその戦働きに馳せ参じておったわけだ」
家康「全国でな、『もうひとつの関ヶ原』と呼ばれる戦いがたくさん起こったわけじゃ。その中でも有名なのが、上杉家と最上家が戦った慶長出羽合戦じゃの。
慶次よ、関ヶ原で東軍が勝ったという報せを聞いて、どうなったんじゃ?」
慶次「これはならぬ、撤退じゃ!と儂は思っておった。しかし、上杉家の指揮を執っておったのが直江兼続殿だったゆえにの、兼続殿が『ここで責任を取って腹を切る』と言うもんじゃから、儂が『腹を切るなら無事に家臣たちを帰国させてからであろう。その時は儂もご一緒いたす』と諭したわけじゃ」
この慶長出羽合戦以外にも、関ヶ原の戦いに間に合わなかった家康の息子・徳川秀忠と真田昌幸・幸村親子との上田合戦など、関ヶ原の戦い前後には全国で大小さまざまな戦が起こり「我こそが天下を」と狙う武将たちがいたのも事実です。
他にも九州の地では、黒田官兵衛が石垣原の戦いで西軍派の武将を次々と破るなど、全国各地で戦が起こりましたが、関ヶ原の結果を知るや否や、あっという間に収まったのでした。
(葉月智世)
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