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信長・秀吉・家康はなぜ愛知から?カギは比叡山の僧兵だった

信長・秀吉・家康はなぜ愛知から?カギは比叡山の僧兵だった

戦国時代を終わらせた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。3人がそろって今の愛知県から出たのは、偶然なのでしょうか。 11月3日放送のCBCラジオ『北野誠のズバリ』、この日のテーマは「田辺先生へ あなたの日本の歴史と文化の疑問」。ゲストの歴史研究家・田辺眞人さんが、濃尾平野の豊かさや比叡山の僧兵をキーワードに、その理由を北野誠、佐藤実絵子、松原タニシに解説しました。

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愛知は畿内と東国の境目

歴史の表舞台にたびたび登場する愛知。その始まりは神話の時代にまでさかのぼります。
 
日本武尊(やまとたけるのみこと)は東方へ遠征する際、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を持って尾張を通りました。途中で草をなぎ払ったことから草薙の剣と呼ばれるようになったこの剣を、帰りに置いていったと伝えられています。その剣が今もまつられているのが熱田神宮です。
 
田辺さんいわく、愛知は大昔から、歴史的な首都圏である「畿内」(今の近畿地方)と「東国」との分かれ目という役割を担ってきました。壬申の乱でも、吉野に逃れていた大海人皇子(おおあまのおうじ)が不破の関を押さえて近江へ入っています。

このあたり一帯は、関ヶ原を接点に、畿内から見た東国の入り口にあたる場所でした。
 
ちなみに織田信長の「天下布武」は、畿内を押さえる意味だとする意見もありますが、田辺さんは日本全体を見ていたと考えています。

戦国時代は、応仁の乱の1460年代から室町幕府が滅亡する1570年代までの約100年。その後半の出発点が、桶狭間の戦いあたりだそうです。

桶狭間は信長の全国デビュー

戦国時代を終わらせた3人は、そろってこの地から出ています。当時でいえば三河と尾張です。
 
桶狭間の戦いは1560年。有名だったのは今川義元のほうで、全国の人は信長のことなど知りませんでした。
 
田辺「だから桶狭間の戦いというのは、織田信長の全国デビューなんです」
 
ただし、信長が隣の美濃を攻略するまでには何年もかかりました。まず織田家を、次に尾張をまとめる必要があったためだと考えられます。そして稲葉山城を落として岐阜と名付けると、その翌年には京都へ向かいました。
 
義元を奇襲で討ち取ったあとも、勢いに乗って一気に攻め上がったわけではなかったのです。

光秀と信長を分けた「首」

義元が討たれたとなれば、当時の人々は大いに驚いたはずです。尾張も三河も乱れてぐちゃぐちゃだった一方、義元は東の遠江・駿河・伊豆を押さえる大大名。自ら京都へ上りたかったと思われます。
 
田辺さんが強調するのは、信長がただ勝っただけでなく、本当に義元の首を取ったという点です。その大切さは、本能寺の変と比べるとよくわかります。

田辺「本能寺の変の後で、明智光秀に信長の家来たちがなびいていかなかったのは、首を取ってないから。もしも信長が生きとったら、光秀についていったらえらいことでしょ?」
 
確信が持てない以上、家来たちは疑心暗鬼になってしまうというわけです。

凸凹の関東、平らな濃尾平野

美濃と尾張を押さえてすぐ京都へ向かえたのは、田辺さんによると、両国にまたがる濃尾平野が日本で一番経済的に豊かだったからだといいます。 

地図では広く平らに見える関東平野も、実は凸凹の土地です。四谷や渋谷のように「谷」を「や」と読むのは名古屋まで。近江から西へ行くと「たに」になります。

神戸には箕谷(みのたに)、伊川谷(いかわだに)、谷上(たにがみ)、櫨谷(はせたに)などがあります。

田辺さんが大好きだという奥三河の湯谷温泉は、湯の谷と書いて「ゆや」。湯谷温泉から浜松へ向かう途中にある井伊家の根拠地・井伊谷も、「いいのや」と読みます。 

関東平野に谷や窪のつく地名が多いのは、それだけ起伏がある証拠。一方の濃尾平野は、揖斐川・長良川・木曽川の三角州がずっと続く平地です。

経済効果が最も大きく、米作りにも恵まれたこの土地を、信長はまず押さえたのです。

先輩格の軍事組織・僧兵

もうひとつの理由は、下剋上で台頭した戦国大名の事情です。対抗勢力のない土地では強い武将がそのまま力を伸ばすため、首都圏の畿内から離れた場所に大きな戦国大名が生まれます。
 
一方の畿内には、侍よりも先輩格の軍事組織がありました。それが、古代の終わりから続く比叡山や高野山、興福寺の僧兵です。
 
戦国大名を牽制する僧兵がいるうえ、近畿地方は農民の経済力の発展も早く、下からの突き上げもありました。そのため、畿内の戦国大名はそれほど強大化できなかったのです。
 

遠すぎず近すぎずの好位置

畿内で一番強かった戦国大名は近江の浅井(あざい)ですが、畿内の中でも端に位置しています。それ以外に大きな勢力はいませんでした。
 
ところが遠く離れると、伊達や薩摩の島津、毛利といった大名が現れます。先輩格の武装勢力もなく、農民もそれほど力をつけていないため、強くなれたのです。
 
ただし、彼らには弱点も。日本全国に影響を及ぼすには都から発信しなければならず、それには遠すぎました。武田信玄も、都へ向かう途中で倒れています。
 
その点、信長や家康、秀吉のいた地域は、戦国大名として成長できるうえに、都までもそれほど遠くありません。
 
畿内を出てすぐの場所という立地をはじめ、さまざまな条件が複合的に働いて3人が生まれたのです。もちろん、そこには個人の資質もあったと田辺さんは付け加えました。 
(minto)
 

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