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CBC若狭敬一アナウンサーが語る、板東英二さんとの思い出

CBC若狭敬一アナウンサーが語る、板東英二さんとの思い出

7月28日、元プロ野球選手でタレント・俳優の板東英二さんが、前週の22日に慢性心不全のため亡くなったと発表されました。享年86。8月1日放送のCBCラジオ『若狭敬一のスポ音』では、パーソナリティの若狭敬一アナウンサーが、生前の板東さんの想い出を語りました。

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板東さんとの出会い

若狭「とにかく元気で華やかで大きいな声でやんちゃなイメージでした。板東さんの活力の原点は家族なので、愛すべき家族に見守られた最後だったというのは良かったかと思います」

若狭が板東さんと最初に接点を持ったのは25年前の2001年。CBCテレビの『晴れ・どきドキ晴れ』だったそうです。若狭はまだ入社4年目の20代でした。

番組の中でコーナーを持つようになり、たまに気の利いたことを言った時にはイジってくれるようになったそうです。

若狭「そんな時は『板東さんにちょっと認められたかもしれない』とモチベーションが上がったものです」

いろんな話を聞いた

やがて食事に誘ってもらえるようになったという若狭。板東さんから様々な話を聞いたそうです。

若狭「中国の業者と謎に進めている貿易話とかね。米原超えたら阪神ファンになるんや。箱根超えたら巨人ファンになるんや、という生き残るための使い分けの話とかね」

ナイトクラブや牛乳配達の副業の話。中日ドラゴンズの話はもちろん芸能界の裏の裏の話など。
その中でも若狭が好きなのは、徳島商業時代の話だったそうです。

練習が厳しすぎる

若狭「徳島商業、あまりにも練習が厳しすぎて部員がどんどん辞めるんですよ」

最後、高校3年生の夏の徳島県大会が始まる前にはサードのレギュラーまでもが辞めてしまったそうです。

若狭「そんなことあります?背番号を貰えない選手が、もうやってられないよと辞めるならわかるんですが、あまりに厳しすぎて徳島県大会直前でサードのレギュラーが辞めるんですよ」

そこで徳島商業の野球部はどうしたのか?若狭は板東さんのモノマネで説明しました。

「もうね、しょうがなかったから、最後は野球経験ほとんどないマネージャーがサード守るしかなかった」

若狭「びっくりです」

素人が野球推薦で

板東さんのモノマネで話す若狭。

「そらびくびくしとったから俺言うたったんや。サードには飛ばさへんから。全部三振取るから」

バッタバッタと三振を取って甲子園に進んだ板東さんは、甲子園でも三振を取りまくり、一大会83奪三振という未だに破られていない記録を作りました。

板東さんは面白おかしく話したそうです。

「そんで、そのサードの同級生のマネージャーな、背番号5貰ってたよ。なんだかんだで甲子園準優勝のサードやろ?こら不思議なもんやで、立教大学に野球推薦で行きよったよ」

自分でモノマネをしておきながら思わず吹き出す若狭。

若狭「板東がさんがそれを面白く語っていたのを未だに思い出しますよ」

プロ野球選手になった理由

若狭はその話を聞いた時、「なぜ板東さんは厳しい練習に耐え抜けたんですか?」と聞いたそうです。

すると坂東さんは「そりゃあな、プロ野球選手もそやったけども、一番は白いご飯を食べるためやわ。銀シャリやで」。

そして真面目な顔になってトーン低めに板東さんはこう言ったそうです。

「それもそうだけども、一番は白いご飯をお袋に食べさせるためだったんだ」

板東さんは満州の生まれ。敗戦後、日本に引き揚げて来てからは極貧生活。そのため育ててくれた母への思い、家族への思いは人一倍あったようです。ただし、父親の話は一切しなかったとか。

原点は家族

若狭「板東さんは家族への愛が一番の原点なんですよね。だからこそ働きまくったし、歌も歌ったし。でも板東さん、カラオケ嫌いだったんですよね」

若狭は何回も韓国クラブやスナックに連れて行ってもらったものの、人前で板東さんが歌ったのを一度も見たことがないんだとか。

若狭「ひょっとしたら『燃えよ!ドラゴンズ』も歌いたくなかったかもしれないけども、お母さんに白いご飯を食べさせるために歌ったのかもしれません」 

最後に「板東英二さん、ありがとうございました」と締めた若狭でした。 
(尾関)
 

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