同じ母から生まれた兄弟だったけど…信長が弟を清州城で殺害した経緯とは
CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)。日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。11月8日の放送は織田信長・豊臣秀吉・陣笠隊の足軽・踊舞の3名が出演し、「この日何の日?」コーナーで織田家の跡目争いについて信長自身が解説しました。
関連リンク
この記事をradiko(ラジコ)で聴くこの日何の日?「織田信長が弟を殺害した日」
「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある中、話題は1557年11月2日に織田信長が、弟・信行(信勝ともいう)を殺害した件について。
信長「平たく言うところの暗殺じゃ。これはな、弟を亡き者にしたと恐ろしいものだと思うかもしれんけど、そもそも信行が悪い」
戦国時代においては兄弟間の争い、または親族間の争いは決して珍しいものではありませんでした。
もともと尾張国を治めていたのは信長・信行の父である織田信秀、その後を継いだのは信長です。しかし、信行もまた優秀でした。
弟が優秀であるため、若き頃「大うつけ者」とされていた信長を快く思わない織田家中の重臣も多くなります。「うつけ者より、優秀な信行が継いだ方が、今後の尾張にとっていいのでは」という意見が出てきたのです。
兄弟間で争うことに
こうして織田家中は信長派と信行派に分かれ、何度か揉め事が起こります。
そして決定的な出来事が、信行殺害の1年前、1556年(弘治2年)に起こった「稲生の戦い」です。
信長「儂のところに兵が押し寄せてきての。(信長が)劣勢で、急に兵を向けられたもんじゃから、5、600集めるのが精いっぱい。向こうは1700くらいで向かってきたんじゃ」
劣勢の中、信長の下で活躍したのが前田利家でした。
他の配下も獅子奮闘の活躍を見せたおかげで、何とか信長は弟・信行の軍勢を撃退。
本来であれば、内乱を起こして負けた信行を処刑するはずでしたが、信行の助命を願った人物が、土田御前だったのです。
弟を殺さねばならなかった事情
実は信長と信行は同じ母・土田御前から生まれました。
「何とか弟の命だけは救ってほしい」と嘆願し、信行も反省の意を見せたため許しますが、これで信行がおとなしくなるかと言えば、そんなに甘くはなかったのです。
信長「信行側に付いておったのが、柴田勝家じゃ。後に儂の重臣になる男じゃが、やつが『どうやら信行様はまた謀反を企てておるようにござる』と報告に来たのじゃ」
当時の尾張は、北に美濃の斎藤家、東に今川家と強力な大名がおり、尾張国内で揉めている時間はありませんでした。
もちろん、信長はこの時点で斎藤家から正妻(濃姫)を迎えていますが、斉藤家の家中でも道三と子の義龍が対立し、1556年の長良川の戦いで道三は打ち取られ、義龍が支配力を強めている最中です。
舅・道三の援護を失い、兄弟間の争いを長引かせれば尾張が攻められることになりかねませんでした。
信行が生きていれば、彼を利用しようとする織田家中の家臣だけでなく、今川家や斎藤家の手の者が近づく可能性もあります。そうなれば、信長の立場も危うくなりかねません。
こうして信行を殺害するのもやむなしとなり、信長が居住していた清州城に柴田勝家らと共謀して仮病を使って誘い出し、殺したのでした。
母・土田御前は信長よりも信行をかわいがっていたと言われています。この暗殺に対して怒り、信長とはあまりその後も関係が良くなかったようです。
(葉月智世)
番組紹介
読んで聴く、新しい習慣。番組内容を編集した記事からラジオ番組を聴いていただける”RadiChubu”。名古屋を拠点とするCBCラジオの番組と連動した、中部地方ならではの記事を配信する情報サイトです。


