「ピカは人がおとさにゃおちてこん…」 戦争を経験した人が少なくなる中 “地獄”を伝える『原爆の図』【戦後81年】
戦後81年。戦争経験者が少なくなっていく中で、“物言わぬ“絵が原爆の悲劇を伝え続けています。水を求めて死んでいった大勢の人々…作品に込められた思いとは。
白と黒で描かれているのは、炎に焼けだされ、水を求める人々。脚を外側に、頭を内側に積み上げられた死体の山。目や口や鼻が、なるべく見えないようにしたのです。

生きていたのか、こちらを見つめる目も。水はただ黒くよどんだ流れとして墨の濃淡で描かれています。
広島出身の画家、丸木位里(1901ー1995)と妻の丸木俊(1912ー2000)が描いた原爆の図第3部「水」。8枚1組の屏風は、縦1.8メートル、横7.2メートルの大きさです。

日本そして海外を巡った「原爆の図」
1945年8月6日の原爆投下を受け、東京に住んでいた丸木夫妻は実家のあった広島へ帰り、1か月以上にわたり救護を手伝いました。
その目に焼き付けた惨状を伝えようと、二人は絵筆を取り、15点の連作「原爆の図」をかき上げました。

さまよう被爆者を描いた第1作「幽霊」(1950年2月発表)。炎に焼かれる人々を描いた、2作目の「火」(1950年8月発表)。
そして3作目「水」(1950年8月発表)など初期の作品は、GHQによる占領下とその直後の頃、原爆に対する批判が制限されていた中で国内約170か所で展示され、惨状を伝えるメッセージになりました。そしてその後、世界20か国以上で展示されました。

(丸木俊 1986年 名古屋・東区)
「広島を見ましたからね。こんな大変なことが二度とあってはいけないと思いましたから。もし地獄というものが本当にあれば、その地獄よりももっと恐ろしいでしょうね」

黒い水と死体の山…原爆の図3作目が名古屋へ
名古屋市名東区にある「戦争と平和の資料館ピースあいち」は、この原爆の図を飾るために、展示室の広さを合わせて建てられました。
戦後81年目の今年は、3作目の「水」を展示しています。

(来場者 60代女性)
「多分大切な人だと思うんです。男性で下にいるのが女性かなと思うんですけど…大切な人をどうにもできないっていうか。切ない。悲しい」

(原爆の図 丸木美術館 岡村幸宣学芸員)
「特に印象的なのは、画面の真ん中に…死んでしまった我が子を抱いている、傷ついた母親の姿が描かれていることで、戦争によって最も傷つく者が誰なのかということを伝えている」

81年前の8月6日。人類史上初めて、核爆弾が人に使われた日。広島ではその年だけで14万人が亡くなりました。
今年8月6日。81年目の平和記念式典。
(高市早苗総理)
「我が国は非核三原則を堅持しており、唯一の戦争被爆国として、核兵器のない世界の実現に向けた努力をたゆまず続けていく使命を担っています」
終戦の年に生まれた子どもたちが「原爆の図」を…
同じ6日、愛知県岡崎市の徳応寺では、あの「原爆の図」の模写が公開されていました。
描いたのは“終戦の年”に生まれた子どもたち。戦後11年目、小学5年生の時に描きました。掛け軸に描かれた、火に焼かれる人々。

(徳応寺 都路尚裕住職)
「(小学校の)授業の中で戦争の話になり、一人の児童が『原爆は景気がいい』と言葉を発した」
たった10年ほどで戦争の悲惨さが薄れたことに衝撃を受けた教師が、「原爆の図」の画集を見せると、子どもたちが「悲惨さを伝えたい」と、自ら模写に取り組んだといいます。
その後「子どもたちが描くにはふさわしくない」など、焼却される危機もあったということですが、寺が絵を引き取って保管し、毎年8月6日~8月15日に公開しています。

(「原爆の図」を見た園児)
Q.どんな気持ちになった?
「悲しい」
Q.なぜみんなは死んでしまった?
「飛行機から爆弾を落とされたから」
(都路住職)
「後の世代にも、命の尊さ、戦争を絶対してはならないという思いを込めて、この絵を毎年展示していけたら」
実際に模写をした男性は今80歳
寺を訪れたのは、70年前、実際に模写をした永井孝昌さん、80歳です。
(永井孝昌さん)
「この(絵の中の)赤ちゃんが、もし生きていたら君たちと同じ年齢なんだよと言われて、それからみんなの気持ちが動いたような気がする」
まだ敗戦の爪痕が色濃く残り、誰もが貧しかった時代。子どもたちは近くの川でシジミをとっては売り、墨や紙の費用を作ったといいます。


この日、懐かしい川を訪れました。
(永井さん)
「子どもの頃はここで泳いでいた。ここは町内のプールでした。シジミやらザリガニなどがいた。(それを売って)小遣いもらって先生に渡した記憶がある。絵の材料にしたんだと思う。(8月)6日は広島の話題が出る。そのときには必ず(絵を描いたことを)思い出す」
日記の中にいたのは“わたしの知らない”祖母
そして同じ8月6日、名古屋のピースあいちでは。
(佐々木陽子さん)
「小さな手帳です。原爆投下から2週間経って、倒れた祖父を祖母が見舞いに行ったところから始まる、祖母の看病の記録だった」
原爆についての語り手を務めていたのが、名古屋に住む佐々木陽子さん57歳。

広島出身の佐々木さんは、被ばくした祖父を看取った祖母の日記から、戦争の不条理を伝えています。
(佐々木さん・日記の朗読)
「おとうちゃまのいじわる。とうとうわたしを置いてけぼりにして、いっておしまいになるんですね」
(佐々木さん)
「旦那さんのことを“お父ちゃま”って呼んでるんですが、『お父ちゃま、私を置いていくの』っていうような語り口調が、私が知る祖母からは想像がつかなくて、大変ショックを受けた」

「私の運命の決まりし最期の時は来た」
日記には、「一晩中 うわ言 連発」など原爆の放射線を大量に浴びた夫の体調の変化や、「私の運命の決まりし最期の時は来た」… 日に日に悪化していくことへの祖母の嘆きが綴られ、日記が書き始められた7日後の8月30日、「くやしかった」という文字とともに夫が亡くなったことが記されています。

祖母からは、ほとんど戦争や原爆について聞いたことがなかったという佐々木さん。しかし、この日記を見つけたことで戦争を“語り継ぐ”ことを決めました。
(佐々木さん 原爆の図 第三部「水」の前で)
「1発(の原爆)でというのがすごい。(この絵のようなことが)起こりうることなんだと。誰もこんな風になりたくてなっているわけじゃない。これが未来の自分だったらどうするかと感じてほしい」

丸木夫妻が描いた原爆の図第3部「水」。本来命をつなぐはずの水が、81年前のあの日、黒い、死の流れとなった情景が描かれています。その横には、小さな色紙の作品も。
「ピカ(原爆)は人が落とさにゃ 落ちてこん」
広島で被爆した丸木位里の母 スマのことばを、丸木俊が色紙に描きました。
戦争を起こす、人類全体の責任を問いかけてきます。





