客を導く巧妙な導線だった!?名古屋「中村遊郭」の四隅から伸びる“斜めの道”が造られたワケとは
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道を紹介。今回は、愛知県名古屋市にある暗渠道から街の歴史を紐解きました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)
運河と花街は関係がある!?中川運河の近くに存在した「中村遊郭」

名古屋市の3つの区にまたがり、港と都心部を結ぶ人工の水路「中川運河」は、大正15年に工事が始まり、昭和7年に全線開通。港と鉄道をつなぐ物流の大動脈として、名古屋のものづくりと街の発展を支えました。
そんな中川運河の近くには、名古屋を代表する一大歓楽街「中村遊廓」が大正12年から昭和33年まで存在。
もともと中区・大須にあった遊郭が、中村区に移転して誕生。最盛期には約2000人もの娼妓を抱え、敷地面積は約3万坪と、吉原遊郭をもしのぐ日本最大級の遊廓でした。
遊廓と密接な関係にあるのが、敷地を囲む水路の存在ですが、「中村遊廓の水路と道には、吉原遊郭とは大きく異なる特徴がある」と道マニア。

吉原遊廓は遊女の逃亡を防ぐ水路が設けられたり、出入口も大門(おおもん)ただ1か所で制限していたりと、外の世界と隔てられた特別な場所だったのに対し、中村遊廓には外の世界へと通じる橋が12本も存在。さらに、敷地の四隅には斜めの道が設けられていたと言います。
遊里ヶ池の真ん中に祀られていた弁財天 かつて水路に架かっていた橋の痕跡も

中村遊廓を語る上で欠かせないのが、地下鉄・中村日赤駅の近くにある「遊里ヶ池(ゆうりがいけ)」跡。
「中村遊郭を造る時、この辺りから土を取って盛土したらしい。その後、水が湧いて遊里ヶ池になったそう」と道マニア。吉原遊郭と同様に、中村遊郭があった場所も小高くなっています。

現在祀られている弁財天は、かつてあった遊里ヶ池の真ん中に祀られていたと言います。
昭和33年、売春防止法の施工により中村遊廓は廃止。その後、数々の妓楼が旅館・料亭などに姿を変えたとのこと。遊廓を囲む水路もその時期には埋め立てられました。中村遊郭があった場所には、橋の親柱と思われる痕跡が今も残されています。
悪水を流す目的だった?人工水路と花街の関係とは

中川区にはかつて、人工の水路「徳左川」が流れており、中川運河へと続いていました。江戸時代、農地に溜まる水を排水するため、安井徳左ヱ門(とくざえもん)という人物が私財を投じて水路を開削。
付近の神社の境内には、かつて架けられていた橋跡のほか、徳左ヱ門の功績を記した碑も建てられています。

そんな徳左川は中村遊郭を囲んでいた水路と繋がっており、遊女が逃げる際の防止や境界線よりも、悪水を徳左川へ流す排水路としての役割が強かったそう。
その水路に架けられていた12か所の橋は、広大な歓楽街ゆえに、多くの客や働く人、物資やサービスが行き交う必要があったからとのこと。※諸説あります
大正期の遊廓の遊女は警察や妓楼の厳しい管理下にあり、橋が多いからといって自由に出入りできたわけではありませんでした。

さらに、中村区の郷土史家によると、四隅に設けられた斜めの道は、道行く人を知らず知らずのうちに遊廓へ導く、巧妙な導線だったとのこと。
外から遊廓の中を覗かせないための造りという説もありますが、中村遊廓は水路や道の導線に至るまで吉原とは異なる発想で設計され、人を引き込み、歓楽街としての賑わいを生み出していたことが判明しました。
CBCテレビ「道との遭遇」2026年6月9日(火)午後11時56分放送より





