川の暗渠化で東洋一の歓楽街に 広がる田畑から発展を遂げた歌舞伎町の歴史とは
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道をご紹介。今回は東京・歌舞伎町にある、川が流れていた場所の上にできた“暗渠道(あんきょみち)”を巡りました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)
歌舞伎町を流れていた「蟹川」
歌舞伎町は現在、東洋一の歓楽街として有名ですが、新宿の中では開発が遅れ、明治後期までは雑木林が広がる今とは程遠い姿でした。そんな歌舞伎町にはかつて川が存在し、街中には今も川の痕跡が残っています。
東西に走る「花道通り」は地面が低くなっており、道路の傾斜から「低い場所には谷があった。そこに川があった証拠」と道マニア。「花道通り」にはかつて「蟹川」が流れていたそうで、現在は暗渠化され、下水道に姿を変えています。
東京大空襲から復興 川を暗渠化し、東洋一の歓楽街へ
歌舞伎町の礎を築いたと言われるのが、実業家であり大地主だった峯島喜代(みねしまきよ)さん。もともと質屋を営んでいた峯島さんは不動産業に着手し、明治44年に歌舞伎町エリアの土地16000坪を購入。雑木林を伐採し、点在していた池を埋め立てて宅地化しました。しかし、当時の土木技術では「蟹川」の暗渠化が不可能だったため、今のような歓楽街までの発展には至らなかったそう。
宅地化が進んだ昭和初期には、学校や商業ビルが立ち並ぶようになり、住宅街として発展。しかし、東京大空襲によって街が一変してしまいます。そこで、街の復興に向けていち早く動いたのが、歌舞伎町の前身である角筈(つのはず)一丁目北町の会長・鈴木喜兵衛(きへい)さん。多くの土地を所有していた大地主・峯島さんを説得し、先進的なエンターテインメントの街にするため尽力しました。
さらに、当時新宿2丁目で賑わっていた遊郭が歌舞伎町へ流れてきたことにより、街はさらに発展。当初は歌舞伎の劇場も建設予定でしたが、戦後の資材不足や財政難により頓挫。その計画の名残が、街の名前の由来となっています。
「川の暗渠化は、歌舞伎町が東洋一の歓楽街になるきっかけの一つ」と言う道マニア。
かつては森や川が存在し、発展から取り残されていた歌舞伎町は、鈴木さんの信念と情熱により、東洋一の歓楽街へと発展を遂げました。
「蟹川」は暗渠化されて「神田川」に合流
地元の方によると、「蟹川」の水は綺麗で生活に欠かせなかったそう。また、かつて田んぼや湿地帯ばかりだった歌舞伎町では、「蟹川」がその農業用水として使われていました。しかし、歌舞伎町の発展に伴い田畑は消滅。宅地化による生活排水で汚染が進んだ「蟹川」は暗渠化され、ひっそりとその姿を消しました。
暗渠となった「蟹川」は、さらに北を流れる「神田川」と合流。一休橋の近くでは、「蟹川」の水が流れ込んでいるのを確認することができます。
4月9日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より