名古屋の人工河川「堀川」誕生の裏に隠された自然河川の軌跡 暗渠となった川の歴史を紐解く旅
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道をご紹介。今回は愛知県名古屋市にある、川が流れていた場所の上にできた“暗渠道(あんきょみち)”を巡りました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)
「彩紅橋」の痕跡が残る「大幸川」の暗渠道
地理的に日本の中心に位置し、陸路および水路の発達から文化・情報の集まる地であった名古屋。1615年、徳川家康公の命により名古屋城への舟運のために「堀川」が造られ、今も名古屋の中心部を南北に流れています。北区を流れる「堀川」の上流には、暗渠になっている「大幸川」が合流している地点があります。
かつては農業用水として使われていた「大幸川」は、街の近代化に伴いその用途はなくなり、さらに洪水被害をなくすため排水能力の高い堀川に接続されたのち暗渠になったそう。
「大幸川」の暗渠道には「彩紅橋(さいこうばし)通」という名前の交差点が存在し、「大幸川」に架かっていた「彩紅橋」が地名として残っています。さらに、近くの神社「六所社(ろくしょしゃ)」には、当時使われていた「彩紅橋」の欄干をはじめ、多くの不要になった橋の親柱が保存されています。
「精進川」と「裁断橋」の痕跡が残る「新堀川」
熱田神宮の近くを流れる「新堀川」は、「堀川」の誕生から約300年後に造られた人工川。街の発展に伴い、「堀川」だけでは賄いきれない舟運を活性化させるべく造られたと言われています。
「新堀川」はもともと別の「精進川」でしたが、曲がりくねった「精進川」は舟運に使えず、広く掘り直して造られたのが「新堀川」。「精進川」の大部分は「新堀川」として生まれ変わりましたが、一部完全に埋め立てられてしまったエリアもあります。
熱田区伝馬(てんま)町にあるお寺「姥堂(うばどう)」には、「精進川」に架かっていた「裁断橋」の痕跡が存在。当時「裁断所」と呼ばれた今でいう裁判所が橋の近くにあったため名付けられたと言われています。また、「精進川」は熱田神宮へお参りに行く前に体を清めるための川だったのだとか。
そして明治37年(1904年)、日露戦争勃発を機に「熱田兵器製造所」を「精進川」の近くに設置することが決定し、敷地造成のための土砂と水運の確保を兼ねて川は改修。さらに大正15年(1926年)には完全に埋め立てられました。
「姥堂」にある「裁断橋」の痕跡は、縮小して復元されたものだそうで、かつての擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市博物館に所蔵されています。
2月13日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より