元竜戦士のトニ・ブランコさんが事故死、忘れられない衝撃ホームランの思い出

突然の訃報は、桜吹雪が舞い始めた名古屋にも届いた。中日ドラゴンズで活躍したトニ・ブランコさんが、母国であるドミニカ共和国で起きた天井の崩落事故に巻き込まれて死亡したと、米国メディアなどが報じた。竜党にとっては、忘れ得ぬ助っ人選手のひとりである。
来日初打席で初ホームラン

ブランコ選手は、落合博満監督時代の2009年(平成21年)から、ドラゴンズでプレーした。背番号は「42」、前年に退団した主砲タイロン・ウッズ選手の後を受けて、ファーストを守った。28歳と若い助っ人選手だった。ナゴヤドーム(現・バンテリンドーム)開幕戦での衝撃は今も忘れられない。
4番に座ったブランコ選手は、2回裏にやって来た日本での初打席でいきなり、相手である横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)先発の三浦大輔投手(現・ベイスターズ監督)から、バックスクリーンに飛び込むホームランを放った。開幕戦の高ぶりの中、さらなる興奮が訪れて、狂喜乱舞した思い出がある。
天井スピーカー直撃の衝撃弾

次なる衝撃と興奮は、1か月後にやって来た。舞台は同じナゴヤドーム、5月7日の広島東洋カープ戦だった。ブランコ選手が、マウンドの前田健太投手(現・デトロイト。タイガース)から放った打球は、レフト側の天井、高さ50メートルの場所に備え付けられているスピーカーを直撃した。推定飛距離160メートル。ナゴヤドームのルールによって、スタンドに入らなくても「ホームラン」と認定された。
今もドームを観戦に訪れる度に、そのスピーカーに目を向けてしまう。同行者がいる場合はそんな記憶を披露するのだが、皆一様に目を見張って驚く。それほど特大の一発だった。
「ドミニカルート」の優等生

ドラゴンズ入団1年目の成績は、ホームラン39本、打点110で、タイトル2冠に輝く。
得点87もリーグトップだった。ブランコ選手は、当時144試合すべてで4番に座った。前年まで4番として打線の柱だったタイロン・ウッズ選手が去った後の不安を、一気に払拭した。クリクリとした可愛らしい目と愛嬌のある笑顔で、すっかりドラゴンズファンの心をつかんだ助っ人だった。
翌年は少し成績を落としたものの、ホームラン32本、打点86と安定した内容だった。「ドミニカルート」呼ばれた独自の外国人選手獲得ルートを持っていた、森繫和コーチの“目利きの象徴”と言える選手だった。
横浜の地でも大活躍
2011年シーズンで落合政権が終わり、続く髙木守道監督の下で1シーズン戦ったものの自由契約となった。次のシーズン、ベイスターズのユニホームを着たブランコ選手は、ドラゴンズファンが「なぜ出してしまったのか?」と切歯扼腕する活躍を見せた。打率3割3分3厘、ホームラン41本、打点136と、横浜の地で自己最高の成績を残す。初の首位打者と、2度目の打点王になり、ドラゴンズへの意地を見せた形となった。でも、ブランコ選手の人柄はそれを感じさせない、さわやかなプレーぶりだった。
その後、オリックス・バファローズに移籍したが、2年間のホームラン数も1ケタと低迷して、2016年(平成28年)オフに日本を去った。
友を救った悲しい最期
ブランコさんが命を落とした事故は、ドミニカ共和国の首都サントドミンゴにあるナイトクラブで4月8日に起きた。突然、建物の屋根が崩れて天井が落下した。当時クラブにはおよそ300人いたと見られ、大勢の客らが下敷きになって死亡した。現地からの報道は、ブランコさんが、崩れ落ちる直前にバファローズ時代に共に日本でプレーした元同僚を突き飛ばして助けたと言う。ドラゴンズをはじめ、日本プロ野球でファンに愛されたブランコ選手らしい振る舞いだった。享年44、早すぎる旅立ちだった。
球団創設89周年を迎えたドラゴンズには、これまでも数多の外国人選手が入団して活躍してきた。トニ・ブランコ、その見事な実績、記憶に残るホームラン、そして悲しいけれど愛に溢れた美しい最期と共に、竜党の記憶にずっと刻まれるであろう。心からご冥福をお祈りいたします。
【CBCマガジン専属ライター・北辻利寿】
※中日ドラゴンズ検定1級公式認定者の筆者が“ファン目線”で執筆するドラゴンズ論説です。著書に『屈辱と萌芽 立浪和義の143試合』(東京ニュース通信社刊)『愛しのドラゴンズ!ファンとして歩んだ半世紀』『竜の逆襲 愛しのドラゴンズ!2』(ともに、ゆいぽおと刊)ほか。CBCラジオ『ドラ魂キング』『#プラス!』出演中。