輝きながら入団したドラゴンズ地元出身スター選手の思い出(13)
地元放送局に入社したことによって、時おり中日ドラゴンズ関係のニュース取材をすることになった。今でも鮮明に記憶しているのは、享栄高校のスラッガー・藤王康晴選手である。
藤王康晴選手との出会い
1983年(昭和58年)2月、センバツ高校野球に選ばれた享栄高校をニュースで紹介する特集を担当することになり、学校のグランドに取材に訪れた。
入社2年目の私は、とにかく前例踏襲が嫌いだったので、何とかニュースの描き方にも自分の色を出したいと思っていた。享栄ナインを紹介するのも、単に原稿で9人を紹介するのではなく、1人1人が自己紹介という形でマイクを持って、自分のアピールポイントを語るという演出を思いついた。
2月27日の日曜日。場所は名古屋市港区の東海電電グランド。享栄高校野球部は
練習でこのグランドを使用していた。「東海電電」という名前だが、当時の電電公社であり、その後、民営化によって「NTT」となる。ここにも時代の流れを感じる。
グランドを訪れて柴垣旭延監督に挨拶し、あらかじめ決めていたように、打順に沿ってマイクを持ってもらい自己紹介をお願いした。
藤王選手は4番打者だった。何と言ってもその名前が良かった。「藤王」である。
「4番ファースト藤王です。甲子園ではホームランを打ちます」などとカメラに向かって語ってくれた。そしてトスバッティングの風景などを撮影して引き上げた。
翌日、享栄高校の体育館では、センバツ旗の授与式があり、こちらも取材に行った。
学校創立70周年の記念イヤーに甲子園出場。盛り上がる壮行会のニュースに、前日に取材したナイン自己紹介を合わせて放送した。
甲子園で一躍スターに
甲子園では藤王選手の打撃が爆発した。
1回戦の相手は兵庫県の高砂南高校だったが、4番の藤王は4打数4安打5打点。特に、ほとんど左手1本で打ったライトスタンドへのホームランには、テレビ観戦していた私も大興奮した。
享栄高校は準決勝で敗退したが、藤王選手は8打数連続安打や11打席連続出塁など、大変な活躍をして、一躍、スター選手となる。取材で関わった選手が活躍するのは本当に嬉しいことだった。
その年のドラフト会議で、ドラゴンズは藤王選手を1位指名したが、その日の日記には「ここ数年で最高のドラフト」とファンとしてのわが思いが綴られている。ちなみにドラゴンズは2位で仁村徹選手(東洋大学)、3位に三浦将明投手(横浜商業高校)を指名。5位は日大藤沢高校の左腕・山本昌広投手だった。
藤王選手は背番号1を付けた。我々にとっては、あの20年ぶり優勝の立て役者・高木守道選手の大切な背番号、まったく異論なしだった。
ドラゴンズ入団の地元選手たち
大都市である名古屋に1球団という事情もあってか、ドラゴンズには地元出身の選手も多い。藤王選手に続いて、同じ享栄高校から近藤真一投手、長谷部裕捕手が入団したし、山崎武司選手、さらに2011年(平成23年)セ・リーグMVPに選ばれた浅尾拓也投手も地元の日本福祉大学から入団した。豪腕・福谷浩司投手も同じ愛知県知多市の出身だし、大島洋平選手も享栄高校の出身である。2015年シーズンで引退した朝倉健太投手も岐阜県出身の東邦高校出身で、こうした岐阜県や三重県出身まで含めると高木守道選手や和田一浩選手など、地元ファンの前で活躍する数々の名プレイヤーを生んできた。
イチロー選手は残念ながら・・・
逆に残念なケースは、地元出身なのに他球団に入団して、さらに大活躍するケースである。
愛工大名電高校からオリックス・ブルーウェーブ(当時)に入団したイチロー選手を筆頭に、最近でも東京ヤクルト・スワローズの小川泰弘投手や楽天ゴールデン・イーグルスの則本昂大投手など、かなりの数が東海地方から“流出”した。活躍している選手が多いということは、このエリアが“野球どころ”と言われる所以だろうか。
2015年(平成27年)ドラフト会議でも、県立岐阜商業高校の高橋純平投手が、抽選の結果、福岡ソフトバンク・ホークスに指名が決まり、九州へ行くことになった。
地元の槙原投手にやられた!
そんな一人に、槙原寛己投手がいる。工藤公康や浜田一夫と共に「愛知の高校三羽ガラス」と呼ばれ、1982年(昭和57年)愛知県立大府高等学校を卒業して、ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団した。
そして2年目のシーズンだった1983年5月14日、あろうことか、ナゴヤ球場でドラゴンズ相手に11三振2安打完封という快投を披露して勝利投手になった。
その翌日の日曜日、愛知県半田市の実家に取材に訪れた。雨のためゲームは中止、ジャイアンツ広報に尋ねたら「実家に帰っている」とのことだった。「本人がOKなら取材もご自由に」と言われたので、母上に電話を入れて訪問した。取材に対してもどこか自由で良き時代だった。
ちょうど外出から帰宅したという槙原投手のもとには、中学時代からの友人たちが訪れてきており、その輪の中で取材させてもらった。
槙原投手への直球インタビュー
剛球投手にはこちらも直球勝負だ。
「地元でドラゴンズ相手に投げることは、やりにくくないですか?」
「いろいろヤジられるけれど、今はジャイアンツの一員だと割り切っていますから」
「どんな風にヤジられるのですか?」
「裏切り者!とか言われますね」
「今からでも遅くないから、ドラゴンズに来てくれという声があります」
「・・・。やはり今はジャイアンツがいいです」
「今シーズン、開幕からパッとしないドラゴンズに一言ありますか?」
「地元のドラゴンズだから、やはり頑張ってほしいです」
槙原投手の人柄がにじみ出るインタビューだった。
遠慮なき質問に対して、誠実に答えてくれた19歳の槙原投手だったが、その答の行間から、ドラゴンズに対する思いが感じられて嬉しかった。背番号「54」と書いてもらったサイン色紙は、今でも大切にしている。
高校野球100年を迎えて
高校野球100年という記念大会となった2015年の夏の甲子園「全国高校野球選手権大会」は、早稲田実業の1年生・清宮幸太郎選手をはじめ、かつてないほどのスター選手で盛り上がった。これだけキャラが立ち実力もある選手が揃った甲子園大会は、わが人生でも水島新司さんのコミック『ドカベン』以来であった。
100周年を盛り上げる対談企画の中で、思い出に残る高校球児を語る中、藤王選手の名前が出てきた。ドラゴンズファンとしての私にとっても、春の甲子園で放ったホームラン、そして入団への感激は忘れられないものであり、そんな郷愁が胸に訪れた2015年夏だった。(1983年)