★In My Life with The Beatles(No.5)心象風景を描くジョン・レノン

★In My Life with The Beatles(No.5)心象風景を描くジョン・レノン

ジョン・レノンは、新曲を書きあげるとまず、レコーディング・プロデューサーのジョージ・マーチンに聴いてもらい、意見を求めるのが常でした。アコースティック・ギターを抱えてジョージ・マーチンの前に現れ、弾き語りで新曲を歌って、「こんな感じなんだけど、どうかな、ジョージ」と言うのが、いつものやり方だったそうです。ジョージ・マーチンは、ビートルズのレコーディングの舞台裏を、プロデューサーの目で記録した本を書いています。『メイキング・オブ・サージェント・ペパー』(ジョージ・マーチン著・水木まり訳・キネマ旬報社)には、絶頂期のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」の制作が進められていた1967年前後のビートルズのさまざまな曲作りのエピソードが収められています。

印象派の芸術のような世界・・・

1966年11月。冷たい風が吹く夜だった・・・と、ジョージ・マーチンは記しています。ロンドンのアビーロードスタジオで、ジョンは、いつものようにアコースティック・ギターの弾き語りで、ジョージ・マーチンに新曲を披露しました。
『目を閉じれば楽に生きていける・・・でも、すべては誤解に満ち、真実なんてひとつもない・・・Strawberry Fields forever 』
ジョージ・マーチンはこの時の印象を次のように語っています。

「曲は星のような輝きを持ってくり返す旋律に入っていく・・・胸にしみ入る。私はすっかり魅せられた」「<ストロベリー・フィールズ・フォーエバー>は、郷愁に満ち、神秘的な雰囲気に包まれており、霧のかかった牧歌的な印象派の夢の世界を作り上げていた」

ジョン・レノンの生ギターの弾き語りを、目の前で聴けたジョージ・マーチンは、なんと幸せなことでしょうか?ジョージ・マーチン自身も、この点について「私にとっての超豪華特権であるプライベート・パフォーマンスだ」と述べています。うらやましい!

ジョンの心の故郷

Strawberry Fields は、ジョンが子ども時代に住んでいたリバプールの自宅近くにあった孤児院の名前です。ジョンは、よくここに遊びに来ていたと言われています。ジョンは、幼い頃に母親を交通事故で亡くしました。心のどこかで、孤児院の存在に興味を持っていたのかもしれません。孤児院のスタッフの人たちも、近所に住んでいるジョン少年のことは、家庭の事情も含めてよく知っていて、ジョンが遊びに来た時は、おそらく温かく寄り添って迎え入れてくれたのだと思われます。

20歳代でこの詩を創作!

幼い日々の記憶に残る場所をテーマに創作した『Strawberry Fields forever』。ここに歌われている詩の世界は、ジョージ・マーチンが「神秘的な雰囲気に包まれている」と評したように、とても哲学的です。今でもリバプールを訪ねると、Strawberry Fieldsの建物と門が残っています。あたりは深い緑に覆われていて静かです。この名所にたたずんで目を閉じ、ジョンが歌う『Strawberry Fields forever』を心の中で反芻してみます。

「目を閉じれば楽に生きていける・・・でも、すべては誤解に満ち、真実なんてひとつもない・・・Strawberry Fields forever・・・」

ジョンがこの歌を創作したのは、なんと26歳の時でした。でも、これで驚いてはいけません。ジョンは、これよりさらに1年前の1965年に「In My Life」という曲を書いています。この曲もまた、20歳代の若者が書く詩とは思えない深い心象風景が描かれているのです。

「これからもずっと思いを寄せ続ける場所がある。今はもう無くなってしまった所もあるし、
ずっと変わらずにあるたたずまいもある。忘れ得ぬ友・・・愛した人・・・。ある人はもう亡くなってしまった。ある人は今も元気でいてくれる。記憶なんて、やがては意味を失っていくかもしれない。ぼくは時々立ち止まって考えるだろう。記憶の中の場所や出会った人々のことを・・・。でも、あなたと比べられる人なんて誰もいない。人生の中で、ぼくは、誰よりもあなたを愛している」

このような歌を、25歳の若さで創作できたジョンの才能に、敬服します。(完)

CBCテレビ論説室 特別解説委員
後藤 克幸

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