豊臣秀吉の天下統一に不可欠だった徳川家康の臣従…差し出したのは妹姫

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。10月31日の放送では織田信長・豊臣秀吉・陣笠隊の足軽・太助の3名が出演し、徳川家康が大坂城で秀吉の家臣となった件を取り上げました。
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「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1586年10月27日に徳川家康が大坂城で豊臣秀吉の家臣になった件について。
織田信長「なぜ秀吉に語らせるかというと、儂はすでに死んでおるからの。死んだ後の出来事の方が知りたいの(笑)」
豊臣秀吉「そもそも、こうなったきっかけの話を、経緯を話したいと思いまする」
1584年、信長の死後に天下統一を進める豊臣秀吉と、徳川家康・織田信雄(信長の次男)の連合軍との間で「小牧・長久手の戦い」が起こります。
発端は、信雄が秀吉と対立し、家康と手を組んだこと。秀吉軍は大軍で尾張に進軍しましたが、家康軍は小牧山に陣を構えて対抗。
長久手では家康軍が秀吉方の池田恒興や森長可らを破り、その後、両者は直接決着をつけないまま講和し、家康は後に秀吉に臣従することとなりました。
後継者として不適格だった次男
「本能寺の変さえなければ、そもそも織田家の天下だった」と主張する信長。
信長「そもそも儂が長く生きておったら信雄は表舞台に出ない。なぜなら、ほぼ勘当されておるからの」
信雄が父・信長から勘当された理由は、信長の許可を得ずに勝手に伊賀国へ攻め込んだためです。
1581年、信雄は伊賀国を支配下に置こうとして軍勢を送りましたが、伊賀の国人や忍者たちの抵抗に遭い、大敗しました(第一次天正伊賀の乱)。
この戦いは信長の命令によるものではなく、信雄が独断で進めたものでした。
これに激怒した信長は、信雄に対して親子の縁を切ることも辞さないほど厳しく叱責したと伝えられています。
なお、信雄はその後、1581年の第二次天正伊賀の乱で信長の伊賀攻めに加わります。
秀吉の妹を差し出す
秀吉にとって、天下統一を進めるにあたってさて通れなかったのが家康の存在でした。それほど他の武将と比べても存在感・強さは別格だったためです。
信長「戦では家康には敵わんからな。秀吉は西に行きたい、でも東には家康がおる」
秀吉「当時九州征伐を控えておりまして、悪くすれば背後を突かれてしまうということになりまする。この時、儂の妹である朝日姫を嫁がせたんじゃ」
秀吉は家康を臣従させるため、妹の朝日姫を家康の正室として嫁がせ、さらに自身の母の大政所を人質として岡崎に送るなど、外交的な働きかけを行いました。
こうした経緯を経て、1586年10月、家康は大坂城で秀吉に謁見して臣従の意を示し、秀吉はさらに勢力を拡大し、朝廷から豊臣姓を与えられるなど、天下統一に向けて大きく前進します。
ただし、家康は臣従後も領国や家臣団を維持し、独自の勢力を保ち続けました。
ちなみに当時の朝日姫は、現代で言うと平均寿命も加味して考えるともう熟女を通り越しておばあちゃんと言ってもいいくらいの年齢。もちろん家康も現代に当てはまれば既に老年に差し掛かっています。
秀吉も家康も色好みで側室が多くいましたが、若い女性を好む秀吉に対し、熟女や出産経験者を多く側室にしたとされる家康を比べるとその差がよくわかります。
(葉月智世)
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