CBC web | 中部日本放送株式会社 / CBCテレビ / CBCラジオ

MENU

加藤清正が戦っていた九州の「関ヶ原の戦い」とは?

加藤清正が戦っていた九州の「関ヶ原の戦い」とは?

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。10月24日の放送では前田利家、加藤清正、陣笠隊の足軽・十吾の3名が出演し、清正が宇土城・八代城を制圧した件を取り上げました。

関連リンク

この記事をradiko(ラジコ)で聴く

加藤清正が宇土城・八代城制圧

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1600年10月17日に加藤清正が宇土城・八代城を制圧した件について。

加藤清正「これは儂が肥後・熊本を治めるために必要じゃったわけなんじゃ」

制圧というと難しそうに聞こえますが、要は城を攻め落としたということになります。

前田利家「皆の者が気になっておるのは、どこ?ってことじゃないのかの」

宇土城は現在の熊本県の中央部・八代城は熊本県中南部に位置する場所です。

この前月、関ヶ原の戦いが勃発して1日で決着が着いたことは知られていますが、各地域で関ヶ原の戦いの余波はまだ続いていました。
その一つが、この清正の宇土城・八代城制圧になります。

九州でもあった関ヶ原の余波

関ヶ原の戦いを本戦とするなら、この宇土城・八代城制圧は関連する戦い。
実は加藤清正は関ヶ原の戦いには参加していませんでした。

十吾「では清正様は九州で何をされて追ったのでござりまするか?」

加藤清正「当時、肥後は半分ずつ任されておって、北半分は儂、もう半分は小西行長が治めておった。小西の拠点が宇土城だったわけでな」

清正の拠点は熊本城。対する行長は宇土城を拠点にしていました。小西行長は西軍、すなわち関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康に楯突いた側です。

関ヶ原の戦い本戦に参加する以外にも、敵となる武将を足止めしたり、攻撃するなど様々な形で余波は続いていたのです。

肥後のその後

関ヶ原の本戦が終わっても、加藤清正は小西行長の領地を攻め続けており、1か月後にようやく収束。その後、清正は熊本(肥後)52万石を拝領することになります。

利家「清正が英雄のようになっておるんじゃけど、それがこの肥後半分から全部を治めるようになったことが重要だったというわけじゃ」

清正は、宇土城を激戦の末に開城させました。戦後、肥後一国(一部を除く)の太守となった清正は、この宇土城を自らの「隠居城」にするべく大規模な改修・普請を行います。
しかし、清正は隠居する前の慶長16年(1611年)に急死。その翌年(1612年)、江戸幕府の命令によって宇土城は破却(城を破壊)され、廃城となりました。

また、寛永14年(1637年)に「島原の乱(天草・島原の乱)」が起きると、宇土城跡はさらなる災難に見舞われます。
一総大将だった天草四郎の父(益田甚兵衛)など、一揆軍の主力に小西行長の旧臣が多く含まれていたことから、幕府は宇土を「キリシタンの影がちらつく不穏な地」と警戒しました。反乱軍の拠点となるのを防ぐため、乱の翌年に石垣を崩し、堀を大規模に埋めるなど、跡形もなく徹底的に破壊されています。

なお、肥後の藩主は清正の跡を継いだ加藤忠広の時代、寛永9年(1632年)に加藤家が改易(お家断絶・領地没収)となります。代わって肥後に入国したのが細川氏(細川忠利)でした。細川氏は現在でも続いており、元首相の細川護煕氏も子孫です。

関ヶ原の戦いは、本戦以外にも大きな影響があったことが伺えます。なお、熊本は元々「隈本」でした。「熊本」への変化は加藤清正が慶長12年(1607年)の熊本城完成に合わせて改名したことに由来していることもまた、興味深いところです。
(葉月智世)
 

この記事の画像を見る

オススメ関連コンテンツ

PAGE TOP