戦国の美女の1人・細川ガラシャが自害した理由
CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。7月18日の放送では、豊臣秀吉・前田利家・陣笠隊の足軽・太助の3名が出演し、「この日何の日?」コーナーで「細川ガラシャ死去」について取り上げました。
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「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1600年7月17日に細川ガラシャが死去した件について。
前田利家「現世では随一の有名人じゃな」
豊臣秀吉「絶世の美女でも知られておるな」
1600年と言えば関ケ原の戦いがあった年。細川ガラシャは西軍である石田三成方の人質になることを嫌い、自ら命を絶った日でもあります。
太助「細川ガラシャ様とは、どういったお方でございますか?」
細川ガラシャは、本能寺の変を起こした明智光秀の娘で細川家の武将・細川忠興の奥方です。光秀が起こした謀反によって肩身の狭い思いをすることに。本来なら謀反人の家族と言うことで追放されるところを、豊臣秀吉の取り計らいで引き続き忠興の正妻としてあることを許されたのでした。
心を寄せたのはキリスト教
しかし、いくら豊臣秀吉が許したとしても「謀反人の娘」という汚名は消えません。
そこで思いつめた細川ガラシャはキリスト教に帰依し、キリシタンとなったのです。
「ガラシャ」という名は、キリスト教信者として洗礼を受けて与えられたものであり、本来の名前は玉子(たまとも伝わる)だったと言われています。
秀吉「ガラシャの周りに仕えておった侍女たちも、大半の者がキリスト教に帰依したと。しかし儂がそもそもキリシタンを弾圧しとったじゃろ?その弾圧にも絡んでおるから、本当に不遇の人生を送ってきた姫でもあるわけじゃ」
そもそも細川忠興との夫婦仲はよかったものの、秀吉が弾圧していたキリスト教に帰依したことによって夫婦仲が悪化していったのも事実。それだけではなく、最期もまた見事な散り方でした。
夫に迷惑を掛けないため
1600年9月に起こった関ケ原の戦いの直前、豊臣家の家臣だった武将たちは大坂城の城下に屋敷を構えており、そこに妻子を住まわせていました。西軍となる石田三成は、その妻子を人質にして、西軍に与させようとしたのです。
利家「細川ガラシャは、自分が人質になってしまえば細川家に迷惑がかかる。自ら命を絶つことで、夫である細川忠興が後ろ髪引かれることなく東軍(徳川家康)に与することができるようにということでこうした選択をしたわけじゃ」
秀吉「この細川ガラシャの自害から2か月後じゃな、関ケ原の戦いが起こったのは」
この自害は、細川家を助けたのみならず東軍である徳川家康の勝利にも大きく貢献しました。石田三成は、最初に細川家を人質に取ろうと細川屋敷を包囲しますが、ガラシャの自害によって三成は他の家から人質を取ることができなくなったのです。
利家「他の家が人質を取られなかったのは、ガラシャ殿のお陰だとも言えるわけじゃ」
結果的に東軍から西軍へ寝返る者は少なくなり、逆に西軍より東軍へ与しようとする武将が増えたとも言われています。
なお、ガラシャが自害したことを知った夫の忠興は西軍への憎しみに燃えて岐阜城攻めに参加した後、関ケ原の戦いで大いに戦功を挙げました。
戦後、忠興はこの功績によって豊前一国と豊後速見郡・国東郡の30万石に加増を受けていますが、その後執り行ったキリスト教式の葬儀では涙したと伝わっています。
(葉月智世)
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