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織田信長と徳川家康は天才軍師・黒田官兵衛をどう思っていた?

織田信長と徳川家康は天才軍師・黒田官兵衛をどう思っていた?

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。3月21日の放送では、織田信長・徳川家康・陣笠隊の足軽・太助の3名が出演し、名軍師として知られる黒田官兵衛について話題にしました。

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黒田官兵衛が没した日

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある中、話題は織田信長・徳川家康両方に関わりのあった黒田孝高(黒田官兵衛)が没した1604年3月20日について。

徳川家康「戦国時代の軍師、すなわち作戦を考える天才。豊臣秀吉殿を助け、天下統一に大きく貢献した人物じゃった」

織田信長「黒田官兵衛は元々、播磨国(現在の兵庫県)の出身、姫路城の城主でもあったな。この者は元々毛利家に属していた小寺家に仕えておったんじゃけども、この小寺家が毛利家に味方するか、それとも当時勢いを増していた儂織田信長に味方するかと揺れておったんじゃ」

小寺家の家臣の大半は、地理的理由などから毛利家に与することを主張する中、黒田官兵衛ただひとり「織田信長は只者にあらず」と織田家に味方することを進言し、信長へと会いに来たのです。

只者ではない

織田信長に会いに来た黒田官兵衛は、自分が考えた中国攻め(毛利攻め)の策略を披露します。
その内容は信長を大いに感嘆させるもので上機嫌になったとか。褒美としてへし切長谷部(へしきりはせべ)という名刀を褒美に与えたとも伝わります(諸説あり)。

信長「そんな中、毛利家と織田家の間でいろいろ戦があっての。その最中に荒木村重というこれまた毛利と織田のどちらにつくか揺れておる者がいて、1578年あたりかな。有岡城二籠っての。荒木は『儂に裏切られたかもしれない』と思ったから、織田信長を裏切るというよくわからん行動をとったんじゃ」

太助「裏切りの疑いを掛けられておるから、裏切ろうと?」

そこで黒田官兵衛が「今なら説得が間に合います。私が行きましょう」と有岡城に行くも消息不明に。
小寺家が荒木村重に与していたため、黒田官兵衛も裏切ったと考えた信長が、人質として預かっていた官兵衛の長男を処刑しようとするも、竹中半兵衛が処刑した振りをして長男をかくまっていたのでした。

家康にとっても恐ろしい人物

それから約1年以上、有岡城を攻めていた織田信長。
ある日、有岡城の地下座敷牢から黒田官兵衛が発見されます。裏切ったのではなく、幽閉されていたと知った信長は、長男を処刑したために会わせる顔がないと思っていたところに、竹中半兵衛から「実はかくまっていた」と聞いて安堵。

織田信長「ただ、1年も劣悪な環境下に置かれておった黒田官兵衛はあざだらけで足を悪くしての。以後、戦いの際は輿に乗っておったというわけじゃ」

徳川家康と深くかかわっているのは、この官兵衛の息子である黒田長政。関ケ原の戦いで、家康率いる東軍の中心人物となった武将です。

徳川家康「じゃが同時に、黒田官兵衛殿も九州で戦をしておったのじゃ。暗い牢獄に1年も幽閉されて追ったじゃろ?天下統一をする秀吉殿の手助けをしながら、秀吉殿がいなくなった後、豊臣家につくか徳川家につくか絶妙な距離であった。関ケ原の戦いは岐阜県で起こったが、同時期に官兵衛殿は九州で戦をして1ヶ月で9つの城を落とした」

徳川家康も、もし関ケ原の戦いが長引いていたら、徳川家の天下取りではなく黒田官兵衛が天下統一をしたかもしれないと言われるほどの破竹の勢いだったと伝わります。

味方にするには心強いものの、敵にはしたくないタイプだったことが分かるエピソードです。家康も「信長殿と秀吉殿亡き後、最も警戒した人物の1人だった」と話していました。
(葉月智世)
 

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