CBC web | 中部日本放送株式会社 / CBCテレビ / CBCラジオ

MENU

前田利家の死去翌日に三成襲撃事件。秀吉亡き後の均衡崩壊

前田利家の死去翌日に三成襲撃事件。秀吉亡き後の均衡崩壊

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。3月7日放送には、豊臣秀吉・徳川家康・陣笠隊の足軽・なつの3名が出演し、前田利家の死去とその翌日に起こった石田三成襲撃事件について取り上げました。

関連リンク

この記事をradiko(ラジコ)で聴く

利家の死去と三成襲撃事件

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある中、話題は1599年3月3日に前田利家が没したことと、その翌日の1599年3月4日に、武断派と呼ばれていた加藤清正たち7名(諸説あり)の武将が、石田三成を襲撃した件について。

徳川家康「まずは概要の説明をいたそうかの。豊臣秀吉殿が亡くなった後、国の中心となる人物がいなくなり、大名たちの関係が悪くなってしまったわけじゃ。

その中で石田三成という者は、戦いで活躍した武将たちから嫌われておったんじゃな。なぜかというと、自分たち(加藤清正たち)の手柄を悪く秀吉殿に報告したと思われておったからじゃ」

ここで、1599年3月3日に前田利家が死去します。
利家の立ち位置は、5大老の一角にして文治派だった石田三成たちからも信頼を得ていただけでなく、武断派も利家には一目置くほどの調整役であり、バランスを取る役でした。

徳川家康の家に駆け込む事態に

利家は三成をある意味守る役でもありましたが、死去したことで武断派の不満が爆発。翌日の三成襲撃事件へとつながっていきます。

家康「襲撃された石田三成はびっくりして逃げるわな。自宅に逃げ帰るも襲撃されるのは目に見えておるから、友達の家に逃げるがそれでもだめでな。最後に逃げてきたのが、最大の好敵手であった儂、徳川家康の家に助けを求めてきたんじゃ」

最終的な家康の判断は、仲裁を選択。武断派から「三成を引き渡せ」と迫られますが、家康は渡しませんでした。
その代わりに三成は奉行職を辞任し、自分の居城である近江の佐和山城に隠居することで何とか事なきを得ました。

豊臣秀吉「儂が天に召された後にそんな出来事が起こっておったとは」

秀吉が亡くなったのは1598年9月18日、その約半年後には早くも豊臣政権に亀裂が走り始めたのでした。

石田三成を信頼していた秀吉

では、秀吉から見た三成はどんな人物像だったのでしょうか?

秀吉「三成はな、徳川殿の言う通り嫌われ者というか、悪く言っておったのではないかという感じの言い方をずっとしておったというか」

家康「秀吉殿、具体的には遠征(朝鮮出兵など)に出かけておった武将たちなど頑張っていた者がいたにもかかわらず、秀吉殿の耳には『あまり頑張っておりませんよ』という嘘の報告をしておったんじゃな」

なつ「なんと!そんな報告をしておったのでござりまするか?」

悪いことに、当時の秀吉は三成たち文治派からもたらされるそれらの報告を信じていました。それだけ秀吉にとっては三成が信頼できる側近であり、天下統一後の行政・財政・実務能力(特に兵糧管理、検地、外交)で優れた能力を発揮する武将でもありました。

一方で武断派の武将たちは、秀吉が話を聞いてくれないという不満を募らせ、秀吉亡き後調整役として機能していた利家が没したことで均衡が崩壊。そのまま関ケ原の戦いへとつながった三成襲撃事件は、歴史の転換点となった出来事だったのかもしれません。
(葉月智世)
 

この記事の画像を見る

オススメ関連コンテンツ

PAGE TOP