川上憲伸「11連勝中、自分だけ勝てなかった」1999年優勝の複雑な心境

CBCラジオ『ドラ魂キング』、「川上憲伸、挑戦のキセキ」は、野球解説者の川上憲伸さんが、自身のプロ野球人生を「挑戦」という視点から振り返るコーナーです。9月10日の放送では、中日ドラゴンズがセ・リーグ優勝を果たした1999年シーズンに開幕投手を務めながらチームの11連勝中に一度も勝ち星を挙げられなかった複雑な心境と、優勝の瞬間に仲間と実行したある作戦について伺いました。聞き手は宮部和裕アナウンサーです。
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1999年、プロ2年目の川上さんは開幕投手という大役を務めました。チームは開幕戦から11連勝という素晴らしいスタートダッシュを切り、そのままセ・リーグ優勝を果たします。
しかし川上さんは、この華々しい年について苦い記憶を明かしました。
「プロ野球を十数年やってきた中で、一番素直に喜べない嘘つきだった自分のシーズンだったり。優勝した瞬間っていう、あの時って本当はどうなのとか考えると、その年ですね」
当時はまだクライマックスシリーズがない時代。1試合1試合が終盤になってくると大事になり、2位も最下位も一緒という考えでした。
開幕投手を務め、11連勝中に3回ほど登板機会があったものの、川上さん自身は一度も勝ち星を挙げることができませんでした。チームが快進撃を続ける中、「多分、周りはわからないけど、僕だけが知っていた」と、複雑な思いを抱えていたのです。
プロの世界の厳しさ
川上さんは当時の心境について、プロ野球の現実的な側面から説明します。
「引退したから言えますけど、勝たないとお金にならない世界なんですよ。アメリカのメジャーリーグと違って、日本はやっぱり勝ち星で判断されたりするので、次にも向かっていけないんですよ」
逆をいえば、点を取られても勝ち星が拾えれば頑張れるものの、自分が勝てない時期は練習に行くのも足が重い状態だったといいます。
先発投手は6日か7日に1回の登板。投げない時はベンチで見るわけにもいかず、外から見ているため「参加できていない感じ」になるそうです。勝てないことで、全てに参加できていないという疎外感に包まれていました。
初めての胴上げと決意
神宮球場で優勝を決めて、星野仙一監督を胴上げしました。これは、川上さんにとって初めての経験で「ああ、これがテレビで見ていたものだ」という感動があったといいます。
シーズン中の成績が今ひとつだっただけに、川上さんは「日本シリーズだったら絶対活躍してやるぞ」という強い思いを抱いていました。
神宮球場での優勝決定戦の数試合前から、ドラゴンズはノリに乗っていました。逆転劇があった試合後、星野監督か島野育夫ヘッドコーチが「優勝する時ってのはこういう勝ち方が必要や!」というような言葉を大声で言っていたのを覚えているそうです。
初めて優勝に向かっていく経験のない川上さんたちは「そうなんだ」と、その言葉を新鮮に受け止めていたのです。
胴上げの瞬間への準備
優勝への期待が高まる中、川上さんは岩瀬仁紀さんや福留孝介さんらと、ある作戦を立てていました。
胴上げの写真は一生残るものの、輪の中に入ると埋もれて見えなくなってしまう。そこで、写真の位置やカメラワークを計算しながら、ジャンプしてアピールしようと決めていたのです。
作戦の第一のポイントは、宣銅烈(ソン・ドンヨル)投手がいるマウンドに先頭切って行くことでした。出遅れてしまうと目立たなくなるため、誰よりも早くマウンドに到着し、輪の中には入らず外側でアピールすることを目指したといいます。
「アップシューズ履き替えましたもん。走りやすいやつに」
神宮球場のダグアウトフェンスの乗り越え方まで研究していました。足だけではつまずく恐れがあるため、腕も使って飛び越える方法を、体育の跳び箱のように何度も確認していたといいます。
チームの11連勝という快進撃の中、自分だけが勝ち星を挙げられなかったという複雑な思い。それでも仲間たちと全力で駆けつけた胴上げの瞬間。プロ2年目の川上さんにとって、ほろ苦くも忘れられない優勝の記憶でした。
(minto)
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