駅の混雑を解消せよ!世界初の「自動改札機」を生んだ日本技術のチャレンジ魂
高度成長期の日本には人の動きがあふれていた。中でも都市の通勤ラッシュは深刻な問題だった。駅の混雑を解消する方法はないのか?日本生まれ「自動改札機」の誕生に向けてプロジェクトが動き出した。
1960年代に日本は、1964年(昭和39年)の東京五輪開催に向けて、社会全体がうねりを上げて動いていた。大阪の町でも、毎朝、駅の改札には長い行列ができて、人混みによるけが人も出ていた。その混雑を解消するために、名乗りを挙げた企業があった。立石電機株式会社、現在のオムロン株式会社である。テーマは「改札の自動化」だった。
オムロンは、1933年(昭和8年)に「 立石電機製作所 」として大阪で創業した。創業者は立石一真さん、熊本県出身で、高校の電気科を出た後に電機業界に進んだ。「レントゲン撮影用のタイマー」「マイクロスイッチ」など立て続けに開発を進めてきた企業が、「自動改札機」の開発に乗り出すことになった。実は、そもそもの開発の第1歩は、鉄道会社と大阪大学の間で進んでいた。そこに装置開発メーカーとして参画したのが立石電機だった。創業者の立石さんが築いた社風は「まずやってみる」。世界初の挑戦が始まった。
立石電機は、1963年に百貨店のレストランに「食券自動販売機」を導入していた。
この食券販売機は、国際見本市にも出品されたが、120種類もの食券を販売できる優れものだった。また翌年には、車を検知して信号を切り替える世界初の「自動感応式信号機」も開発していた。こうして培ってきた磁気や光学の技術を結集して「自動改札機」の開発を進めた。さて、それを最初どこの駅に設置するか?日本には、「人類の進歩と調和」をテーマとする世界的なイベントが近づいていた。1970年(昭和45年)の大阪万博である。会場へ大勢の観客を運ぶために千里線の延長計画を進めていた阪急電鉄と、新しい北千里駅に「自動改札機」を置くことで合意、1967年の駅開業と同時に世界初の本格的な「自動改札機」10台がお目見えした。
北千里駅には自動改札機と共に、「自動券売機」と「カード式定期券発行機」も設置された。立石電機が開発した3点セットによる“無人駅システム”が万博会場の目の前で実現したのだった。もっとも、最初は乗客も戸惑った。改札機に定期券ごと入れたり、紙幣やコインを入れたり、混乱もあった。このため、立石電機の担当者や駅員たちが改札に待機して、使い方を丁寧に説明したという。「自動改札機」は、駅員が改札に立つ必要がないという人員の「省力化」と、「自動化」による混雑解消、この2つの点で駅に画期的な進歩をもたらしたのだった。現在、オムロン株式会社による自動券売機と自動改札機など「駅務システム」は国内シェアにおいて業界トップクラスとなった。
大勢の人が行き交う駅に“革命”をもたらした日本のテクノロジー。高度成長期のニッポンに生まれた「自動改札機」は、今や鉄道の駅で混雑解消に欠かすことができないシステムとして活躍している。日本生まれ・・・「自動改札機」は文化である。
●執筆後記
筆者が高校生だった1970年代半ば、名古屋市営地下鉄にも自動改札機が導入されることになった。駅員が鋏(はさみ)で「カチッ」と検札することがなくなる淋しさに、通学途中の駅で「なぜそんな機械を導入するのか?」と疑問を投げかけたことがある。突然やって来た高校生に丁寧に応対してくれたベテランの駅員さんはこう答えてくれた。
「実は自分たちも戸惑っている。お客さんの切符にハサミでカチッと穴をあけることが『目的地まで安全にお運びします』と誓う瞬間なのだから」
ますます進む駅の自動化、しかし鉄道マンの安全への心意気は不変であると信じている。
【東西南北論説風(267) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿のコレ、日本生まれです」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして紹介します。