日本伝統の「こたつ」の進化、そこには“逆転の発想”驚きのドラマがあった!
ユニークな「こたつ(炬燵)」がお目見えした。2022年の秋に、サンコー株式会社(東京)が発売した「こたんぽ」。寝袋のように下半身をすっぽりと覆って使える一人用の「こたつ」なのだが、足元部分が開いているため、歩いて移動することもできる。発売からわずか2か月間で、2万5000台というヒット商品となった。「こたつ」の進化が続いている。
童謡に『ペチカ』という歌がある。「雪のふる夜は楽しいペチカ」という歌詞に、遠い異国の寒い冬、しかしそれに負けない暖かさを想像した記憶がある。部屋を暖めるものに、西洋では「暖炉」がある。やがて、ボイラーによって作られた熱によって、部屋全体を暖める「セントラルヒーティング」が欧米における暖房の主流になっていく。また韓国には「オンドル」という床暖房がある。そんな海外の、言わば“部屋全体を暖める暖房”と違って、日本では昔から「囲炉裏」や「火鉢」のように“1点集中型の暖房”だった。その代表格が「こたつ」である。
日本で「こたつ」が生まれたのは、室町時代と伝えられる。囲炉裏の火を落として、その上に脚の短い台を置いて、着物をかぶせて暖を取った。余熱を閉じ込めるという先人の知恵だった。江戸時代になると、木で枠を組んだ「やぐらごたつ」、さらに囲炉裏の代わりに火鉢を使って、部屋のどこでも使うことができる「置きごたつ」も生まれた。明治時代になって、1909年(明治42年)、英国からバーナード・リーチという陶芸家が来日した。日本文化に親しみを持っていたが、正座だけはどうしても苦手で、平らな座敷で足を伸ばす「こたつ」はどうしても使いづらい。腰掛ける“椅子のような”こたつはできないか、と考え、思いついたのは床を掘り下げることだった。今でも様々なところにある「掘りごたつ」は、日英アイデアの合作によって誕生した。
そんな「こたつ」の問題は、熱源が木炭や炭団(たどん)だったため、うっかり足で触ってしまうと火傷することだった。また一酸化中毒を起こす恐れもあるなど、暖を取るためとは言え、なかなか使いにくい面もあった。太平洋戦争が終わって、こたつの熱源に電気を使うことになり、足元には赤外線ヒーターが置かれ、炭火の時のような火傷の心配は少なくなった。日本における「こたつ」の基本形はでき上ったように思われたが、ここで驚きの革命が訪れたのだった。
日本伝統の「こたつ」、その常識をくつがえした人物、山田正吾さんは電機メーカーに勤めていた。会社が作っている電化製品の売り込みのために、日本全国を回っていた山田さんは、ある日、雪国で蕎麦屋に入った。席に座ると、何やら頭の上の方が暖かい。天井を見上げてみると、2階にある「こたつ」に使うための炭の容器が、2階の床をくり抜く形で置かれていて、隙間から暖気が1階にも漏れてきていたのだった。「これだ!」山田さんに新しい「こたつ」の姿が閃いた。「こたつの足元にある熱源を上にできないか」。これまでは、熱源が足元にあったため窮屈だったが、やぐらの上側にヒーターを取り付ければ、足は中で自由に動かすことができる。山田さんは早速、自分が思いついた「こたつ」作りに取りかかった。この山田さん、実は大手電機メーカー「東芝」の技術者だった。
開発を進める中で、大きな問題が持ち上がった。暖かい空気は下から上へと昇っていく。「こたつ」の上の部分にヒーターが付いていたのでは、中の全体を暖めることは難しい。そこで思いついたのは、アルミ製の反射板だった。赤外線ヒーターの上に取り付けることで、熱は反射して下へと降り、「こたつ」の全体を暖かくすることができた。こうして山田さんが思いついた新たな「こたつ」が完成、東芝は1957年(昭和32年)に、新商品「電気やぐらこたつ」を発売した。家族みんなが足を入れても、中の空間には余裕があった。童謡『雪』にある歌詞のように「猫もこたつで丸く」なれた。発売した年には20万台を売り上げ、その後も家族団らんのシンボルとして、一般家庭に広がっていった。
エアコンやセントラルヒーティングの普及で、日本でも部屋全体の暖房化が進むが、「こたつ」の人気は根強い。ソファーと一体型のもの、椅子に座って使える高さがあるもの、さらに布団なしでも使えるものなど、新商品は続々と登場して、インテリアのひとつとしても使われている。
暖かい「こたつ」に足を入れる時、人は身体だけでなく心まで温かくなるように感じる。「こたつはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“足元からポカポカと”温められている。
【東西南北論説風(395) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。