時代とともに姿を変えてきた「伊賀街道」 4世代の道が残る「長野峠」 明治時代の石造り「旧長野隧道」も
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道をご紹介。今回は、三重県伊賀市にある“時代の流れと共に変化していった伊賀街道4世代の道”を巡りました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します)
※安全対策をしてロケをしています。廃道は危険ですのでむやみに立ち入らないでください。
伊賀市と津市をつなぐ大動脈 江戸時代の「伊賀街道」
江戸時代、伊賀市と津市をつなぐ重要なルートとして使われていた「伊賀街道」。伊賀上野城の城主・藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊賀市と津市を結ぶために整備した道で、伊賀方面からは油や綿が、津方面からは水産物や塩が運ばれるなど、経済・生活の大動脈の役割を担っていました。
標高500mを超える「長野峠」は最難所と呼ばれ、江戸・明治・昭和にそれぞれ標高が違う場所に道が造られ、現在は廃道になっています。
明治時代の「旧長野隧道」が眠る旧旧道
明治時代に入ると技術が進歩し、山越えをするために峠の下に隧道を掘って道を建設。2世代前の旧旧道は明治18年(1885年)、長野峠の70m下に長さ218mの「旧長野隧道」が造られました。
明治14年から4年7か月の月日をかけて、ノミとツルハシだけで造られたそうで、花崗岩(かこうがん)の美しい石造りが目を引きます。
旧旧道付近にはかつて茶屋があったり、氷を作る田んぼ「氷田(ひょうでん)」から氷を包んで夜中にお城まで荷車で届けたりしたのだとか。しかし、車社会の発達により、幅や高さがないこの隧道は廃止に。地元の方の話によると、「ドイツの技術者が来て石組みを造った」そうです。
紡がれた4世代の道 昭和時代の「長野隧道」から現役「新長野トンネル」へ
昭和時代に入ると、さらに技術が進歩し長い隧道を掘ることが可能に。標高を下げることで緩やかな道を造れるようになり、車も通れるようになりました。
「旧長野隧道」の約30m下には、長さ300mのコンクリート製「長野隧道」が昭和14年(1939年)に竣工。1世代前のこの旧道は車道として開通しましたが、幅員が5.5mしかなく、大型車のすれ違いが困難なため廃道となったそう。
そして平成時代、「長野隧道」の100mほど下に新たな道を建設。幅員7m、約2kmもある国道163号の「新長野トンネル」は現在も使われており、4世代の道が紡がれています。
11月28日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より