根尾昂選手の背番号からたどるドラゴンズ「7」の系譜に登場する伝説選手とは?
中日ドラゴンズのドラフト1位指名、高校球界のスーパースターである根尾昂選手の入団後の背番号が「7」に決まった。「とても似合う」「他の1ケタの番号の方がいいのでは?」ファンの間でも様々な声があふれているが、ひとりの新人選手の背番号をめぐってここまで話題になるのだから「さすが根尾君!」である。
背番号「7」で思い出す内野手2人
根尾選手は「プロではショート1本で勝負したい」と決意を表明したが、ドラゴンズの背番号「7」で特に印象深い内野手が2人いる。
まず宇野勝内野手だ。1979年から1992年まで14年間にわたって背番号「7」をつけた。
ルーキー立浪和義選手が入団して1988年からセカンドやサードなどに回ったが、「ショート宇野」として球団史の中では一時代を築いた強打の右打ちスラッガーである。ショートフライを捕球の際に頭に当てた「ヘディング珍プレー」が強烈な印象を残した一方、1984年にはホームラン37本を打ち阪神タイガースの掛布雅之選手と共に本塁打王を獲得した。ドラゴンズ在籍中のホームラン334本は、今なお球団でのトップである。スタンドに登場した等身大の「宇野人形」も人気だった。
もうひとりは森野将彦選手である。2度にわたって背番号「7」を付けた。
もっとも森野選手の場合は、とにかく背番号がよく変わった。1997年の「7」から始まり「8」「16」「31」「30」そして2014年からの再びの「7」となり現役引退した。この背番号の数の多さは、中日ドラゴンズ検定で問題として出題されたほどである。森野選手は左打ちにスラッガーで、当時の落合博満監督から「自分が監督時代に、実力でレギュラーを勝ち取ったのは森野だけ」と言わしめた選手だった。
球団史に残る激闘キャッチャー
その2人の内野手以外に、背番号「7」で思い出すのは新宅洋志捕手である。
キャッチャーでは谷繁元信元監督が2002年から2年間だけ「7」をつけたが、新宅捕手は1971年から8年間「7」を背負った。同じ時期に木俣達彦という強打の捕手がいたため、控えにまわることが多かったが、頭脳的なリードとガッツあるプレーを多くのドラゴンズファンは愛していた。
20年ぶりにリーグ優勝を果たした1974年の翌シーズン、連覇に向かうドラゴンズは初優勝をめざす広島東洋カープと激しい優勝争いをしていた。
事件はその最中、1975年(昭和50年)9月10日、当時の広島市民球場で起きた。5対4とドラゴンズリードで迎えた9回裏、2死2塁からのヒットでランナーの三村敏之選手がホームへ突入、センターを守っていたローン・ウッズ選手の送球で本塁タッチアウト、ゲームセットとなった。しかし、その際の新宅捕手の強烈なタッチに対して憤死した三村選手が抗議したことから興奮したカープファンがグランドに乱入し、ドラゴンズの選手6人が暴行を受ける事態となった。
翌日のゲームは球場の安全が確保できないという理由で中止、前代未聞の事態となった。そのきっかけとなるタッチプレーをした新宅捕手の平然とした表情はドラゴンズファンの心情としてはとても頼もしかったことを記憶している。
シーズンはカープが初優勝し「赤ヘル旋風」という言葉が野球界を席巻した。しかしそんな勢いに負けなかった激しい背番号「7」もドラゴンズ球団史には存在した。
背番号は選手の顔である。森野選手のようにいくつもの背番号をつけた選手もいれば、ドラゴンズでは、今季限りでユニホームを脱いだ岩瀬仁紀投手の「13」、荒木雅博選手の「2」そして浅尾拓也投手の「41」のように入団以来ずっと同じ背番号で、文字通り「自分の顔」としてきた選手もいる。ドラゴンズに移籍して今季は「99」番をつけてきた松坂大輔投手が長年背負ってきた背番号「18」にこだわる気持ちも分かる。
根尾昂選手が「7」という背番号をどのように育てていくのか、楽しみに見守りたい。