【日めくりドラゴンズ】「五輪に出たい」19年前の1月17日に入団した中日・ディンゴの思い出
2000年1月17日。オフの補強最大の目玉選手の入団が決定した。デビット・ニルソン。前年は大リーグ・ブルワーズに在籍し、21本塁打を放った現役バリバリのメジャーリーガーだ。登録名は「ディンゴ」。出身地のオーストラリアに生息する野犬の名前で、本人のニックネームでもあった。
シドニー五輪出場を目指して移籍
1999年、11年ぶりにセリーグを制した中日。ドーム移籍3年目、ナゴヤ球場時代の打ち勝つ野球から、広いナゴヤドームでの守り勝つ野球にモデルチェンジし、リーグトップの防御率を誇る豪華投手陣を擁しての優勝だった。しかし、山崎武司が離脱した日本シリーズでは3試合で完封負けを喫し、日本一はならず。連覇、そして日本一を目指す上で必要なのは、ゴメス・山崎に次ぐ大砲の獲得だった。
そんな折、移籍先を探していたディンゴに白羽の矢が立った。ディンゴの夢は、母国・オーストラリア代表としてシドニー五輪に出ること。しかし、メジャーリーグに在籍していると五輪には出場できない。ならばどこにも在籍せずに五輪まで待つか、あるいは五輪を諦めてメジャーでプレーするか。ディンゴにとって、中日からのオファーは渡りに船だった。
左投手に抑え込まれ、本領発揮ならず
五輪でチームを離れるまでに打ちまくると豪語し、連覇への使者として大きな期待を受けたディンゴだったが、日本の野球には苦しんだ。
ヤクルトとの開幕戦。5番・左翼で先発出場するも、石井一久の前に2三振。2戦目に来日初安打を放ったものの、開幕3連戦でのヒットはこの1本のみ。続く巨人との3連戦では、初戦と3戦目にタイムリーを放ったものの6つの三振を喫し、開幕2カードで20打数3安打と、期待を大きく裏切る形となった。
不運な要素もあった。開幕2カードの21打席のうち、左投手との対戦が実に17打席。しかも石井一久、前年12勝のジェイソン・ハッカミー、工藤公康、この年12勝を挙げるダレル・メイなど、エース級の左腕との対戦が多かった。開幕早々、左投手に立て続けにきりきり舞いさせられ、バッティングに狂いが生じたか。
それでも二軍では元・大リーガーの打棒を発揮し、45試合で打率3割4分2厘、9本塁打という成績を残した。球宴前の7月に再昇格を果たし、セリーグでは22年ぶりとなる捕手の守備にも就いたが、7月28日を最後に一軍登録抹消。工藤から喫した見逃し三振が日本での最後の打席となった。結局18試合の出場で、打率1割8分、1本塁打、8打点という成績に終わった。
メジャーのパワーを見せつけた場外ホームラン
唯一放ったホームランは規格外だった。4月7日の横浜戦。2点リードの7回2死一・二塁、目の前でゴメスが敬遠されて回ってきた打席だった。河原隆一の投じた内角のボールを捉えると、打球はライトスタンドを越えて場外へ。来日25打席目にして待望の一発だった。この試合では、メルビン・バンチがノーヒットノーランを達成。先制弾のゴメスと共に、盟友の大記録に花を添えた。
五輪、特に日本戦で大活躍
日本では活躍できなかったもののその年の9月、オーストラリア代表として念願の五輪に出場。予選リーグ敗退となったが、日本戦では黒木知宏から一時は逆転となるホームランを放った。
さらに4年後のアテネ五輪にも出場。再び日本戦でホームランを放ちチームを勝利に導くと、再度日本との対戦となった準決勝では2投手をリードして1-0で日本を撃破。オーストラリア初の銀メダル獲得に大きく貢献した。
オーストラリア代表監督として
2018年3月。ディンゴは再びナゴヤドームの芝を踏んだ。侍ジャパンと対戦するオーストラリア代表のコーチとして、である。五輪出場を夢見てメジャーを飛び出した男は、母国の野球史に確かな足跡を残した。昨年6月にはオーストラリア代表の監督に就任。目指すはもちろん2020年の東京五輪。ディンゴ監督率いるオーストラリア代表の戦いにも注目だ。
【CBCアナウンサー 榊原悠介
中日ドラゴンズ検定1級。日付からドラゴンズの過去の試合を割り出せる特技を持つ】
毎週水曜日連載。