日本最初の「缶詰」中身は北海道の味!知っておきたい食文化“はじめの一歩”

日本最初の「缶詰」中身は北海道の味!知っておきたい食文化“はじめの一歩”

ブリキ缶の蓋を開けると、中には美味しそうな料理があり、そのまま食べることができた。明治時代の初め、海外からやって来た「缶詰」を見た日本の人々は大いに驚いたと言う。そんな「缶詰はじめて物語」。

生みの親は、フランス皇帝ナポレオンだったと伝えられている。19世紀はじめ、遠征の時に、栄養もあって新鮮で美味しい食料が必要だったナポレオンは、懸賞金を出して“保存食”のアイデアを募集した。選ばれたのは瓶に食品を詰めた「瓶詰」。フランス軍の戦いに大いに役に立ったと言うが、瓶は重く、何よりも割れやすい欠点があった。その発想をもとに、瓶の代わりにブリキ缶を使って、やがて「缶詰」が生まれた。ヨーロッパからアメリカへ渡り、南北戦争でも保存食として重宝されたそうだ。

そんな「缶詰」が日本にやって来たのは明治時代の初め。長崎の語学学校でフランス語の教師が食べている缶詰の牛肉料理を同僚の日本人が見て、缶詰作りに挑んだのが事の始まり。明治の日本では、調理をあまり必要としない干物や塩味のきいた保存食が主流だった。そんな時代に、蓋を開けると中に料理が入っているという「缶詰」は驚きの食品だった。富国強兵という掛け声の下、産業振興をめざしていた明治新政府は、様々な西洋文化を積極的に取り入れていたが、この「缶詰」にも注目した。国産の缶詰を作ろう!

「北海道開拓使石狩缶詰所」提供:(公社)日本缶詰びん詰レトルト食品協会

最初は東京で試験的に製造を始めたが、より最適な場所があることに気づく。蝦夷地から名前を「北海道」に変えた北の大地である。北海道で産業を興す品物の候補として「缶詰」に白羽の矢が立った。1877年(明治10年)に札幌市の北に位置する石狩市で日本初の缶詰工場がスタートした。その名も「北海道開拓使石狩缶詰所」。米国から招いた 技術者の指導を受けながら、その年の10月10日、早くも国産の缶詰ができ上った。それは「鮭(さけ)」の缶詰、石狩川で獲った新鮮な鮭が使われたのだった。のちに10月10日は「缶詰の日」に制定されている。

「当時のサケ缶詰ラベル」所蔵:北海道立文書館

日本の開発技術はめざましく、1年目には1万5000缶もの「さけ缶」が製造され、翌年には早くも海外への輸出が始まった。しかし、国内での消費はまだまだ少なかった。価格が高かったからだ。当時は1缶あたり20銭から35銭、米1升(10合)が7銭した時代で、「缶詰」を一般家庭が食べるにはハードルが高かった。しかしその手軽さと便利さによって「缶詰」は成長を続け、昭和時代に入ると、まぐろ(ツナ)、カニ、いわし、さらにミカンやパイナップルなどのフルーツへも広がった。買い求めやすい値段になっていき、広く国民が愛する食料品に育っていった。

「缶詰」の種類はますます増え続け、鶏飯や牛めしなどの“ご飯もの”から、タコ焼きやお好み焼き、さらにはケーキやパンも人気を集めている。災害に備えた保存食としても活用されている。同時に「缶詰」の技術を生かしたレトルト食品も登場して、最近はパウチを使った食料品がめざましい勢いで種類を増やしている。そんな国産の缶詰が誕生してから、やがて150年の歳月が経とうとしている。

明治時代に海を渡ってやって来た「缶詰」を、広く愛される食品にまで成長させたニッポンの開発技術。「缶詰はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが刻まれている。
         
【東西南北論説風(284)  by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】

※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。

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