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徳川家康が会津征伐を決めた原因「直江状」とは?

徳川家康が会津征伐を決めた原因「直江状」とは?

CBCラジオ『伝令!武将が現世でラジオを始めたようです!』は、400年の時を経て現代に蘇った名古屋にゆかりの武将たちと足軽集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、日本の歴史を楽しく紹介する歴史バラエティ番組です。6月20日の放送では、徳川家康、前田慶次、陣笠隊の足軽 十吾の3名が出演し、徳川家康による会津征伐について取り上げました。

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徳川家康が会津征伐に出陣した日

「この日何の日?」コーナーは、先週土曜日から今日までの1週間の日付で過去に起こった歴史上の出来事・記念日を解説。いくつかある話題の中で取り上げたのは、1600年6月16日に「徳川家康が会津征伐に出陣した件」について。

徳川家康「儂、あまり記憶にないの。そんなに大きな出来事ではないじゃろ?」

前田慶次「いやいや!これは重要な出来事にござりまする」

この出来事は、家康と慶次両方が関わっているのです。

慶次「この折、儂は上杉家の当主である景勝様に仕えておってな。儂と直江殿と交流が深かったゆえにの。この話をするに至っては…のう、家康殿」

十吾「直江殿というのは、上杉景勝様の家臣である直江兼続殿でございますな」

この直江兼続と徳川家康の間には大きな因縁がありました。

秀吉亡き後の豊臣家で争いが勃発

豊臣秀吉が亡くなった後、この頃は豊臣家を支える土台が揺らいでいた時期。
秀吉の子、秀頼を中心に五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)が政治を行うことになっていましたが、既に次の天下人は家康でほぼ決まりかけていました。

家康「儂のことを快く思わぬ者も多かったでの。豊臣家は徳川派と反徳川派に分かれて追ったわけじゃ。石田三成殿などは、反徳川派の筆頭であったわけじゃ」

そんな時に、会津を治めていた上杉景勝が城壁を整えたり、兵を集めているという話が家康のもとに届きます。

当時、景勝は120万石を有する大名の中でもかなりの力を持った武将。そのまま放置すれば、家康の地位も危うくなる恐れがあり、秩序を守る上でも無視できませんでした。

かの有名な直江状で家康激怒

当時上杉景勝は会津に移封されたばかりで領国が整っていない状態でしたが、家康は景勝に対して「上洛して(領国から京都へ出てきて)、儂に説明せよ」と要求します。

家康「それに対し、上杉家はある書状をよこしたんじゃったの、慶次」

慶次「左様でござる。これが有名な『直江状』というもので、内容としては(上杉家に対する)謀反の疑いは誤解である。逆に家康殿にこそ謀反の気配があるんじゃないのか?という内容じゃった」

そこで家康からの上洛や釈明の要求に対し、「領内の道路整備や武器の買い入れは国として当然。何が謀反の兆候か」「天下を治める者が、根も葉もない噂(讒言)を真に受けて怒るなど聞いたことがない」など、家康に対して器量を試すような文言とともに「いかにも怪しい讒言(ざんげん)である」と皮肉交じりに否定しています。

「讒言」とは、他人を陥れるために、事実を曲げたり嘘をつき、目上の人に悪口を告げ口することです。

関ケ原への伏線

家康「その内容を聞いた後、慶次はどうしておったんじゃ?」

慶次「もう肩をぶん回して、戦の準備をしておったわ!よくぞ家康殿に言ってのけたと思っておった(笑)」

直江状の内容を見た家康は、当然激怒。
上杉討伐のために会津へ出陣しますが、その隙を突いたのが石田三成。家康を倒すために挙兵します。

このことが同年9月に起こる「関ケ原の戦い」への伏線となるのです。

実は、後の研究で「現在伝わる直江状が原本そのままなのかどうか」について議論があるのも事実。後世になって、上杉家側で修飾された可能性も指摘されています。
そのため、「家康を罵倒した痛快な挑戦状」というイメージは江戸時代以降の講談や小説によって強調された面があります。

ただし、少なくとも家康が上杉家を討つ材料になったことは確かなようです。
(葉月智世)
 

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