ボウリングブームに沸いたニッポン!3時間待ちの人気にテレビドラマも登場
生まれて初めてボウリング場に行った日の記憶は鮮明だ。小学生の時だった。とにかく広いフロアに、沢山のレーン、そしてボールが走る音にピンが弾ける音。そこは、日常とは違う別世界、まるで“異空間”だった。最初のゲームスコアまで覚えている。54点だった。
過熱したボウリング人気
「ボウリング」は、江戸時代末期の1861年に、長崎の出島に米国から伝わったとされる。太平洋戦争の後は、手軽に楽しめるスポーツとして広がり始め、1952年(昭和27年)に、東京に日本で初めての本格的なボウリング場が作られた。その後、昭和40年代になると、ボウリングに一大ブームがやって来た。1967年(昭和42年)には全国に500ほどあったボウリング場の数は、それから5年の間に3700へと、一気に7倍以上に増えた。日本列島、いつでもどこでも誰でも、ボウリングを楽しむことができた。
海水浴場にも登場
記憶に残るのは、愛知県の知多半島にある新舞子海水浴場である。当時、鉄道会社が資本の「舞子館」という日本旅館もあり、多くの人が夏には海水浴を楽しんだのだが、その海岸近くに、ある夏、巨大なボウリング場がお目見えした。「名鉄 舞子ボウル」という名前だった。こけら落としには、中日ドラゴンズの主力選手が大勢招かれていて、そのサインボールをもらった思い出がある。
それは米国文化だった
ボウリング場は、アメリカの“文化”にあふれていた。その巨大さもだが、2時間や3時間の待ち時間の間、場内にあるピンボールなどのゲーム機で遊んだり、大人たちはビリヤードをしたりしていた。専用のシューズも、子ども用から大人用まで各サイズが揃って、貸し出されていた。ボールも様々な重さによって、色分けされて用意されていたが、その重さは「ポンド」で表示されていた。投げたボールはレーンの間の“トンネル”を通って手元に戻ってくる。倒れたピンは、機械によって自動的に立て直される。湿った手のひらを乾かすためのエアーも吹き出ている。すべてが新鮮だった。
人気の女子プロボウラー
ボウリングの選手、いわゆるプロボウラーたちも続々と登場した。特に女子プロには、中山律子さん、須田開代子さん、並木恵美子さんら、そうそうたる顔ぶれがいた。中でも、日本で初めてのパーフェクトゲーム(300点満点)を達成した中山さんの人気は絶大で、シャンプーのテレビコマーシャルに「さわやかリツコさん」として登場したりもした。ボウリング中継の番組は、多い時で1週間に13本もあったと記録されている。若きボウラーの青春を描いた『美しきチャレンジャー』というテレビドラマも放送された。主演は新藤恵美さん。レーンの両端に2本ずつ、合わせて4本残ったピンを、第2投ですべて倒す“魔球”も登場し、自分でも投げられないかと、実際に何度も試したものだった。
ボウリングブームの終焉
ブームは熱しやすく冷めやすい。過剰な数に増えたボウリング場は、昭和50年代になると次第に淘汰されていき、その数も1000を下回っていった。新舞子海水浴場のボウリング場も、その短い生涯を終えた。それでも、平成の時代に入り、職場や学校の親睦を深める場所として、第2次ブームがやってきた。昭和の時代は手書きだったスコア表も、ほとんどがコンピューターでの自動記入になった。そのブームも、レジャーの多様化や施設の老朽化などで、再び下火になっていく。名古屋市内でも、半世紀以上の歴史を持つ「星ヶ丘ボウル」が、2023年12月の営業終了を発表するなど、ボウリングブームも、時代の波の中に消えようとしている。
戦後、アメリカの巨大娯楽文化に初めてふれる場所だった、そんなボウリング場の思い出は尽きない。多くの人が、それぞれの家族や仲間と共に、それぞれの楽しみ方で、「ボウリングブーム」を体感したことだろう。間違いなく、ニッポンの歴史の1ページを刻んでいた。
【東西南北論説風(465) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※『北辻利寿のニッポン記憶遺産』
昭和、平成、令和と時代が移りゆく中で、姿を消したもの、数が少なくなったもの、形を変えたもの、でも、心に留めておきたいものを、独自の視点で「ニッポン記憶遺産」として紹介するコラムです。
CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー(毎週水曜日)でもご紹介しています。