恐怖と戦慄!「お化け屋敷」をエンターテインメント産業として進化させたニッポン
古来、東西南北を問わず人々は“幽霊”という存在を「恐がりながらも見たい」と思い、スリルを求めてきた。英国のロンドン搭やルーマニアの吸血鬼など、世界各地には幽霊の伝説がある。「お化け屋敷」のことを英語で「haunted house(ホーンテッド・ハウス)」と呼ぶ。ディズニーランドの人気アトラクションに「haunted mansion(ホーンテッド・マンション)」があり、体験した方も多いことだろう。
日本での「お化け屋敷」の最初は、江戸時代末期と伝えられる。もともと「東海道四谷怪談」などが歌舞伎狂言として演じられてきた。そんな1830年(天保元年)、江戸に暮らす瓢仙(ひょうせん)という町医者が、自宅の庭に小屋を作って、その壁に鬼や妖怪など“百鬼夜行”の絵を描いた。さらに一つ目小僧などの人形も作った。「何やら面白いものを見ることができるそうな」と町の話題になり、大勢の人々が訪れるようになったが、「悪趣味だ」と批判も出て、わずか3か月で小屋を閉めたという。その後、お寺の境内での見世物小屋に人形師が作った亡霊の人形などが並べられるなど、今日の「お化け屋敷」の原型が顔を見せ始めた。
明治から大正時代に入ると、日本各地のお祭りや催し物会場に「お化け屋敷」が登場するようになった。特に夏は「納涼」と名づけて開催された。「恐怖によって涼を求める」という、どこか微笑ましい人の営みのひとつ。昭和の時代に入ると、デパートの屋上や遊園地にもお目見えするようになった。学校の文化祭でも教室を使った、お手製のお化け屋敷が登場した。そんな「お化け屋敷」が日本で新たな進化を遂げることになった。エンターテインメント産業が目をつけたのである。それによって、単なる“見せ物”ではなく、映像も駆使した“エンターテインメントのコンテンツ”として成長することになる。
日本で「お化け屋敷」がエンターテインメント産業として歩む過程で、人々をより怖がらせるために様々な工夫が凝らされた。まず「ストーリー性」。古い病院だったり、古民家だったり、一家が惨殺された家だったり、客に事前に物語の“舞台”を理解してもらう。屋敷に入る前に短いストーリー映像を見せて、よりリアルに客を引き込む工夫もある。実際に何かを体験してもらう「ミッション性」も重要だ。分かれ道を自分で選んで進み、間違ったルートだと元に戻されたり、グループで入っても“生贄”としてひとりは別の部屋に入れられたり。さらに、赤ん坊の人形を抱いて入る、無防備になってさらなる恐怖を味わうため靴を脱いで入る、いわゆる「監禁部屋」に亡霊と一緒に閉じ込められるなど、観客も様々な体験をさせられる。「メイク」の面では米国ハリウッドから有名なアーティストを招いて特殊なメイクでリアルさを追求し、迫力のある3D映像や音響などの立体的なシステムも取り入れられた。屋敷内を歩く全長がおよそ1キロメートルと長く、所要時間も1時間に迫るという“長尺もの”お化け屋敷もある。
また、どこかの施設に固定されるのではなく、“移動式”の「お化け屋敷」もお目見えした。2021年に初登場した『無顔(むがん)』はホラームービーの脚本家がストーリーを書いたが、トラックのコンテナ部分を使っている。1台のトラックで全国どこへでも行くことができるため、コロナ禍で多くの娯楽施設や遊園地が休業を余儀なくされた中、人気を集めたそうだ。実際に予告映像を見ただけで怖くなった。また『絶叫救急車』はデリバリー型の「お化け屋敷」、狭い救急車の中で3D映像を上映、実際に水の飛沫がかかる仕掛けも用意された。他人とは完全に非接触のため、こちらもコロナ禍で重宝された。「お化け屋敷」は、日本が誇る最新の技術を駆使しながら、幅広い魅力的なエンターテインメント産業として、ニッポンの地でますます進化している。
今日の「お化け屋敷」の進化には、主役の幽霊たちも驚いているかもしれない。「お化け屋敷はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが“背筋が凍りつくような快感と共に”刻まれている。
【東西南北論説風(359) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。