お正月の話題はコレ!知っていると楽しい「門松・鏡餅・お年玉」はじめて物語
もともとは海外で生まれ、それが日本に入ってきて定着したり発展したりしたものは数知れずある。お正月の風習にも、そんな「はじめて物語」がある。
「門松」と家康の不思議な関係
お正月の風景と言えば「門松」がある。悪い鬼や邪鬼が家の中に入ってこないように、門や玄関に飾る風物詩でもある。この門松のルーツは中国、7世紀からの唐の時代、新年に門に「松の枝」を飾る風習があった。松は、不老長寿や繁栄の象徴とされていた。
日本に入ってきたのは、平安時代と伝えられている。“神が宿る木”と言われた松、「松」=「祀る(まつる)」という連想もあって、最初は貴族が飾っていた。小さな松の木を根っこがついたまま白い和紙に包んで、玄関先に掛けたそうだ。室町時代になると、この風習は武家にも広がっていった。
戦国時代には、松に加えて、斜めに切った竹を組み合わせるようになった。それは徳川家康が始めたという説を耳にした。三方ヶ原の合戦で、甲斐の武将・武田信玄に大敗した家康は、命からがら浜松の城に逃げ帰ったというエピソードは有名だが、よほど悔しかったのか、「二度と武田(たけだ)には負けない」と誓って、竹(たけ)を斜めに切って立てかけたという。それを家臣たちが真似するようになって、広まったという説なのだが、2023年NHK大河ドラマで松本潤さんが演じる徳川家康、そんな逸話が令和の時代に語られていることを、当のご本人はどう思っているのだろうか?
「鏡餅」は武家の習慣だった
神仏に餅を供える風習「鏡餅」は、丸い餅が、鏡の丸型に似ていることから名前がついた。もともと餅は東南アジアにあった食べ物で、稲作と共に、大陸から日本にやって来た。平安時代になって、お正月など晴れがましい日に食べるようになった。餅を食べることで、身体に力がつき「新しい生命を再生させる」と信じられていた。
この餅を「鏡餅」としてお正月に供えるようになったのは室町時代と言われる。武士はお正月に、戦で使う兜(かぶと)や鎧(よろい)の横に「具足餅(ぐそくもち)」と呼ばれる餅を供えた。お正月が終わる時に、硬くなった餅を割って食べることで、「神様が宿った餅から力をもらって、新しい年も戦に勝とう」と誓ったそうだ。「切る」という言葉は切腹につながり縁起が悪いこともあって、「餅を開く」という表現になった。それが今日にも通じる「鏡餅」である。やがて江戸時代になると、武家だけではなく一般庶民の家庭にも広まり、餅の丸い形から「夫婦や家族の円満」という意味合いが加わっていったと言う。
最初は丸い餅だった「お年玉」
子どもたちにとって、お正月最大の楽しみは「お年玉」であろう。新年に子どもたちに金銭を与える風習は、もともとアジアの国々にあった。中国では、貨幣そのものに信仰に通じる力があると信じられて“お守り”として、子どもたちに渡された。
日本では、最初は鏡開きの時に、丸い餅を渡していた。神の魂が分け与えられるようにという意味で“御年(おんとし)の魂(たましい)”から「御年魂(おとしだま)」と呼ばれるようになった。本来「お年玉」は“神様からいただくもの”だった。しかし実際は“家長”である父親など“人(ヒト)”からもらうため、餅以外、例えば、武士は刀、医者は丸薬など、さらには玩具(おもちゃ)へと変化し、必ずしもお金ではなかった。
現金を渡すようになったのは、日本が高度成長期に入った昭和30年代。核家族化が進むと共に都市部の世帯数は激増して、年末に皆が集まって餅をついて、それを供えて食べるなどの行事もできなくなった。だったら、簡単に準備できて渡しやすい「現金にしよう」となり、お年玉はお金へと替わっていった。
門松、鏡餅、そしてお年玉。日本のお正月の風習には、1年の健康と家族の繁栄を願う気持ちが込められている。新年を迎える「はじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、まさにそのものが刻まれている。
【東西南北論説風(393) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。