「エレベーター」は日本で飛躍的に成長した!初登場の歴史と開発競争の今
世界で最初に「エレベーター」を考えたのは、歴史上有名な古代ギリシアの数学者アルキメデスと伝えられている。高さを上下するその“箱”は、後に日本の地で大きく成長した。
アルキメデスの時代には、もちろん電力はない。滑車とロープを使って人の力で引っ張り、荷物の上げ下ろしをしたことが、今日の「エレベーター」の始まり。時は流れて18世紀、発明家ジェームス・ワットが発明した蒸気機関が、その動力として登場し、産業革命に大きな影響を与えた。そして蒸気による動力は、やがて電力へと移っていく。
日本で初めて、動力式のエレベーターが登場したのは明治時代の半ば、1890年に東京の浅草にお目見えした展望台「凌雲閣」だった。雷門で知られる浅草寺の北西に建てられた高さ66メートル、地上12階の内部に国内初の電動エレベーターが設置された。「凌雲閣」は八角形をしたユニークな建築物で、それぞれの階にお店が入り、その最上階が展望台だった。前年にフランスのパリではエッフェル塔が建設されたため“日本のエッフェル塔”とも呼ばれて評判を呼んだと言う。
当時から残っている資料によると、国内初の電動エレベーターは1階と8階を直行で結んだ。赤色と黄色の2台があり、その広さは畳3畳ほど。中には腰掛や姿見の鏡もあった。定員は15名から20名と比較的大きなものだった。しかし、警察から「危険」と注意を受けて、完成からわずか半年で運行を停止。さらに大正時代になって1923年の関東大震災で建物自体が大きなダメージを受けて、「凌雲閣」は解体されて日本初のエレベーターと共に姿を消してしまった。しかしその後「エレベーター」自体は、日本各地のデパートなどビルに次々と設置されていった。
20世紀後半に入ると、「エレベーター」は日本企業による開発競争の主役になった。1978年に東京の池袋に完成した「サンシャイン60」。地上60階、240メートルの高層ビルに設置されたエレベーターは、分速600m(時速36km)で世界最速を記録。1993年に横浜みなとみらい地区に建設された「横浜ランドマークタワー」では分速750m(時速45km)を達成。21世紀には舞台が海外に移った。2004年に台湾の「台北101」では分速1010m(60.6km)、2016年に中国の上海市「上海中心大廈」では分速1230m(73.8km)、そして2019年に同じ中国の広州市には分速1260m(時速75km)というエレベーターたちが次々と設置された。東芝、三菱電機、そして日立製作所など、名だたる日本企業が技術を競った。
スピードだけではない。日本製「エレベーター」は、安全性と快適性も追求した。動き出す時と停まる時の衝撃がない滑らかさ、エレベーター内に立てた10円玉硬貨が倒れないというデモンストレーションも登場した。今や日本企業の“独壇場”とも言える「エレベーター」の開発技術、遠い昔の数学者アルキメデスも予想だにしえなかったエレベーターをめぐる競争が、異国のニッポンで熱く繰り広げられている。
ニッポン企業によるエレベーター開発競争、その技術は世界が刮目する高みへと“昇り”続けている。「エレベーターはじめて物語」のページには、日本の文化の歩み、その確かな1ページが刻まれている。
【東西南北論説風(305) by CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿】
※CBCラジオ『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』内のコーナー「北辻利寿の日本はじめて物語」(毎週水曜日)で紹介したテーマをコラムとして執筆しました。